かっこうの餌食(未完)


 一
 いつのまにか枯れてしまった指先は新聞紙を捉えられず、するすると滑った。常田は妻が淹れたアイスコーヒーのグラスに浮かびあがった結露で指を湿らせ、ページをめくり、デスクへ前のめりになって当選発表欄とくじ券の組番とを一文字ずつ見比べた。それが終わると今度は口に出して言った。
「一等、二千万円、七十四組、一、〇、二、〇、三、四番……こちらもまた七十四組、一、〇、二、〇、三、四番か。」
 常田は椅子の背もたれに身を預け、居馴染んだ書斎の白色の天井を見上げた。人智を超えた大いなる存在に対し敬虔さなど持たない彼だったがこの時ばかりは自分の元へ気まぐれに舞い込んだ幸福に、またそれを遣わしたであろう姿形、教えも知らぬ神に心からの感謝を贈った。部屋中に漂っている生活の匂いは常田にとってすでに、どこか懐かしむべきものであるように感じられ、新たに沸いた多幸感が彼を豊かに覆い包んだ。またあんまり長いこと天井を見ていたものだから視界の端には赤や緑が焼き付いてチラチラと映ったが彼にはそれすらも自分を祝福する聖天使のように思えた。そのうちぽつぽつと浮かんできたものは叶えようとするにはあまりにあやふやな欲望ばかりで、いざ形作ろうと押し固めようとするそばからとろけ、崩れてゆくので、常田はそれをひとまず放棄することにした。
 もし彼が今より十若く、また独り身であったのなら二千万円などそれこそ泡のように消えたことだろう。しかし今の彼には妻がある。暫し連絡こそ取っていないが年老いた両親がまだある。十数年前に建てたマイホームのローンが残っている。それらは彼の内で真夏の入道雲のように立ち昇っていたはずの欲求を腐らせ、駄目にしてしまっていた。それは彼にとってなんとも歯痒いものであったが、その淡い寂寥もろともにくじ券を自分の財布に収めた。
 二
 それから少し経ったある日、常田は会社へ顔を出さなかった。新卒採用でシティホテルの事業開発部に配属され、特別秀でた所こそないけれど人の嫌がる仕事も二つ返事で引き受け、何かあれば真っ先に頭を下げて、下の者ができる頃になっても時には小間使いの様な事も進んでする、そうした愚直さを買われ次長と呼ばれるまでになった齢四十八の男が一本の電話すらなしに仕事を休むとなればすなわち、そこへ顔を出すことはもうないと言うのと同義であった。それは決して意図せず手にした金子を前にこれまでの小市民的な暮らしにうんざりしただとかそんなことでなく、確かにわずかに気が大きくなってこそいたものの、常田はその程度の金で安定した生活を投げ出すほどの若さは無く、何より日々地道に働いている自分がそう嫌いでもなかった。当然、その日も仕事へゆくつもりであった。
 三
 妻の見送りなどという慣習は彼の家庭において言えばとうの昔になくなっており、常田の方もリビングのソファにある妻の背に対し、特段何かを告げることもなく家を出た。六月の中頃に入ると夏の盛りが顔を覗かせ、からりとした晴天の日が増えていた。降り注ぐ熱線のもと、常田は額から滲み出る脂汗を手背で拭いながら駅へ向かった。通勤通学の者が連なる駅前まで来たところでふと、常田は妻の作った弁当を家へ忘れて来たのに気付いた。彼の足がはたと止まる。
 ——取りに戻れば妻はこちらへ向いた後、いくつか小言をいうに違いない、ただでさえ朝というものは皆苛立っているのだから、わざわざ喧嘩をしに戻ることもあるまい、夜に帰ってそれでもまだ怒っているようならその時に謝れば良いだろう。
 常田は家庭内の調和のために弁当を諦め、再び歩みを進めた。
 常田は濁った採光窓を通った陽光が照らす階段を一段ずつ登り、一番ホームに立つと折よく通過のアナウンスが流れた。
「まもなく、電車が通過いたします、黄色い線の内側までお下がりになってお待ち下さい。」
 徐々に近づいてくる車輪がレールの継ぎ目を踏み越える音の中に誰かがあっ、と声を漏らしたのを常田は聞いた、その拍子に彼は群衆に背中を押され、ホームの縁のところまで躍り出る形になった。眼前の線路上にはスーツ姿の青年が四肢を放り出し、天を仰いでいる。それでも堅く握られた掌や力の入った足先からは観念しているとは見受けられず、今際の際となってもなお、葛藤し続けている様に見えた。
 列車には得てして彷徨い、躊躇しているものを引き摺り込む魅力がある。それはあの大きな威力を前に、自分の命すら一瞬でもぎり取っていくと確かに信じさせるからである。
 耳を覆いたくなる様な金属同士の軋り合う音が周囲の視線を一様に線路の方へと向かせた。運転士の動揺を現しているかの如く、車体は大きく震えながら減速してゆき、男の肉体を轢きずり車軸に絡めとるとホームの向こうのほうまで運んでいった。車両が完全に静止する頃、亡骸は常田から遠く離れ、それでもあちらに見えている赤黒いそれが人の形を保っていないことが彼にもわかった。
 針の落ちる音さえ聞こえるような一抹の静寂の後(こう言った際は決まって婦女である。)が悲鳴を上げると辺りは一瞬にしてパニックに陥った。駆けてきた駅員は線路へ降り立ちブルーシートで一帯を覆う。それでも覗き込もうとふらふら揺れる無遠慮な頭達、幾人かは剥き出しの感情を衝立の向こうの骸に向ける。ホームの支柱から支柱に黄色のテープで規制線が張られ、次第に古くなった機械油のような匂いがしてくると、それがますます群衆を煽動し秩序を有耶無耶にする。死の匂いに寄ってきた数羽の烏に覗かれながらも、青年の骸は依然としてあちらにあるのみである。
 常田はこのような事故はせいぜい切羽詰まった人間の最後の衝動だと捉えられるような、いささか冷めた人間であった。それでもいざ目の当たりにしたとなれば、幾分不愉快な心地にさせられたのも事実である。それはショッキングな事故の瞬間や、青年の抱える苦しみについてにではなく、今や自分が何をしても得られない若い生命を自ら打ち捨てる行為に感じている、いわば羨望に近いものと気づくのにそう時間はかからなかった。常田は己の半生を回顧したが自死を試みた経験はおろか、それに至るほどの悲運や挫折も思い当たらなかった。自ら死を選ぶことを甘えとしたことすらあった。それは彼の人生が思い通りに進んでいて、満ち足りていたというよりはそこまでに至るきっかけがなかったに過ぎず、また今でもそれが幸福であると信じきっている。だからこそ若さゆえの不安定さにどこか自分の持ち得ない、またこれから新たに得ることのないものを感じ取り、不謹慎ながら羨むのだった。それから常田の思考は広がってゆき自分の余生を考えるに至った。
 ——四十八歳から定年までの十七年は仕事に出るだろう。定年を迎え、訪れる余暇、自分はそれから何をすれば良いのだろう。もっとも夫婦の間に子供さえあれば、生活を変化させざるを得なくなるだろう。いいや、これは以前諦めたはずだ。であるとすれば今と変わらぬ暮らしの先に、いきなり六十五の老人の姿になった自分がいて、とにかく暇だけがあって、いったい何をするのだろう。待つのだろうか、日に日にこちらへにじり寄ってきては気まぐれに私の手を取って連れて行こうとする死を、あの青年の様に寸前まで葛藤しながらも待つのだろうか。それを待つために若さを惜しみなくつぎ込んできたのだろうか。決して後悔はない、ただこれではあまりに達成感なるものがないではないか。とすればおそらく私が初めて自殺を考えるようになるのは待つようになった時なのではないだろうか。
 四
 常田の意識は水の打つ音で外に向いた。少しばかり考えに耽っているうちに一通り済んだらしく、駅員が線路内の血溜まりをバケツの水で流していた。点在する朱殷色は希釈されながら敷石に染み込み、消えていった。規制線が剥がされ、先程命を奪った列車が客を乗せたまま駅を発ってしまうと事故の痕跡はほとんど無くなって、辺りは列車を待つ人で溢れかえってこそいるが、普段とそう変わりない朝の空気感に戻っていた。通過列車が常田の目の前を横切り起こった風が吹き抜けてゆく。常田はその風の中にいまだ死臭が残っている感じがして何度か鼻を啜った。
 五
 常田は携帯電話を取り出し会社の上司に遅れる旨を簡潔に伝えた。時刻は九時を回ったところであった。
 ようやくのことで到着した列車の乗車口が開くとあたりの者は皆一人残らず飲み込まれていった。当然常田もそのうちの一人である。車内は肩を竦めるのも困難なほどに窮屈であった。列車が動き始めると常田の腹のところには何やら背の低いものが当たっていて、それがモゾモゾと身をよじっている。常田が視線だけをどうにか下に向けてそちらを見ると、白く細い腕がにゅっと伸び、ぺたぺた確かめるように常田のジャケットに触れ、裾を力強く握った。常田は突然のことに驚いたものの、どうやらそれは人波に押し流された子供で、掴まるところを探しているようだった。常田はジャケットに皺が寄るのがいささか気にはなったが、この状況では押し除けることも出来ず、自分が降りるまでの間だけは支えてやろうと、つり革を今一度握り直した。
 常田は車両が弾む度にどうにか顔を見れないかと目線をちらちら下にやった。子供の腕は以前、常田のジャケットを力強く握りしめている。まだ遊ぶことしか知らないような掌と、細いながらもどこか力を感じさせる腕を、今にも千切れてしまいそうなほどに張った筋で繋ぎ、それらを生まれ持った冬色のしなやかな肌で包んでいる。気づけば常田はこの一本の造形物から目を離せなくなってしまっている自分に気づいた。またそんな自分を認められず、誰が見ているわけでもないとは思いながらも咄嗟に目を瞑り、微睡んでいるふりをした。
 六
 列車はいくつかの駅を過ぎゆきターミナル駅に停車した。都心から同心円状に広がる鉄道網の多くへアクセスできるこの駅では、ほとんどの乗客が降り、新たに乗ってくるものは少ない。乗車口の扉が開くと子供は握り込んだ手指を解き、激流のような群衆に飲まれ、常田に顔も見せないまま消えてしまった。常田の降りる駅はもう少し先である。呼吸のしやすくなった車内で常田はあの子供はどこへゆくのか思い、気がついたのは閉まりかけの扉をすり抜け走り出す列車を見送った後であった。
 七 
 自分の無意識のうちの行動に驚きながらも改札を抜けたところで常田は軽い空腹を覚えた。会社には遅れる旨を伝えている、弁当も家に忘れてきた。数年前の結婚記念日に妻から贈られたドイツ製の腕時計を見やる。時間としては少し早いが今のうちに昼食を取ることに決めた。駅前に立ち並ぶ飲食店をインターネットで一通り確認するが先ほどのこともあり、魚や肉といった生き物を食べるのは常田の内の人間的な部分が抵抗し、拒んだ。結果として、彼はすぐ近くの立ち食いそばの店に入ることにした。食券販売機の前に立ち、財布を出す——。
 常田はジャケットからパンツからあらゆるポケットに手を入れ、まさぐり、何度も上からはたいた。ここには入れていないとどこかで解っていながらも鞄をがさがさやってみる。やはり無い。そこら中でしている蕎麦を啜る音やトレーの上を滑る丼の音の中、悪あがきしている中年の姿がガラス扉に映っている。常田はそのあまりに情けない姿から逃げるようにして店を後にした。
 八
 常田は公園のベンチに腰を下ろし、たばこに火をつけた。ひとまず名前と電話番号を駅と交番に書き置いてきたが、あまり期待しない方が良いと何度か自分に言い聞かせ、カード会社へ電話を掛けると常田はたいして吸わないままのたばこを靴裏で踏み消した。次第に募る焦燥感とやり場の無い憤りに駆られ、常田は歩き出さずにはいられなくなりその頃には会社のことなどもう、すっかり失念していた。 
 常田があてもなく住宅街をふらふらしていると、辻を曲がった少し先には坊主頭の子供の姿があった。年は背格好を見るに十歳かそこらだろうか、きっちりとした私立学校の制服らしきシャツとサスペンダーで吊った黒のハーフパンツという出立ちで、半袖からは常田が見惚れたあの腕が伸びている。車内では子供の腕のみが常田から見えていたが、その腕だけはそらで思い浮かべることができるほどに見ていた。自分に掴まっていた少年に違いない、そう気づいた途端に少年と自分が無くした財布とを結びつけ、あまつさえあの少年が盗っていったのではないかといった猜疑心が常田に芽生えた。それはあまりに浅はかで、短絡的な考えであるが、この時の常田にはそれが確信であるかのように思えた。つくづく焦りというものが深い思考を阻害することを証明している。
 常田は束の間、少年になんと声をかけるべきかと頭を捻った。当然あの少年が財布を盗っていった証拠など無く、よしんば本当に盗っていたところで、少年が二言三言嘘を吐こうものなら、常田にはどうにもできないことは明らかであった。
 思考の最中で常田は自分でも分からぬうちに何やら呟いていたらしく、少年が訝しむような表情を常田へ向けた。常田は勢いに身を任せ、やおら口を開いた。
「君、少しいいかな。」
 明らかに子供慣れしていない不審な声掛けだと、常田自身でさえ思った。少年は鋭い目つきを真っ直ぐに据え、常田の方を見ている。
 常田はまず少年の整った顔立ちに面食らった。線の細い輪郭と生白い肌に、墨で引いた様な眉と通った鼻筋、切れ長の一重瞼をカールした睫毛で嫌味なく飾り、その奥にオニキスの様に深く、それでありながら異様に澄んだ瞳が収まっている。虎刈りの坊主頭でありながら、どこか中国北部の娘を思わせるような美しさは、常田を躊躇わせた。常田はこのまま下手に出るべきではないと考え、咳払いを一つすると低い、不躾ながら咎めるような声色でこう続けた。
「どうやらどこかで財布を盗られたみたいでね、君さっきまで私と同じ電車に乗っていただろう。」
 依然少年は常田の奥底を覗き見るような眼差しのまま、物言わず立っている。
 常田はすぐに少年を恐ろしいと思い始めた。少年となにか言葉を交わした途端に自分の人生が狂わされてしまうとどこか本能的に気づいていたからである。常田は今にでもこの場から逃げてしまいたかった。この少年と向き合わずに済むのなら自分の財布を諦めることさえ、厭わないとまで思ったそのころ、少年の両の眼に、不意に涙が滲み、溢れた。少年は泣き声ひとつあげないが、堪えるわけでもなくただはらはらと涙を流し、伝った涙は頬を流れ顎に溜まると、ぱたり、ぱたりとアスファルトへ落ちた。
 常田はこのような涙を流すものを一人知っていた。妻の千里子のことである。
 それを見たのはしばらくの夫婦生活でたったの一度きりで、またずいぶんと昔のことになるのだが、常田はその時のことを今も鮮明に覚えている。
 常田夫妻二人の間に子供がないのには、妻千里子の体質に理由があった。常田は結婚してすぐに子が欲しいと千里子に申し出て、また彼女もそれに応じた。もとより性に関心が薄く、恋人同士の頃でさえそれほど枕を交わすことのなかった二人が、夜な夜な情事に勤しんではみたものの実を結ぶことはおろかその兆候も見られなかった。その頃二十七の働き盛りであった常田は千里子に産婦人科の検査を受けるよう言った。千里子の方も成果のない性交渉に嫌気がさしていたらしく、次の日の朝一番で病院へ向かった。
 仕事を終え帰った常田を迎えたのは、玄関先にへたり込み、泣き腫らした目でしきりに謝る千里子だった。常田が千里子を抱き寄せると、千里子はまた目に涙を浮かべ一言ごとにしゃくり上げながら「あなた、うう、あなたごめんなさい。わたし、あなたの子供が産めません——。」と言うと、再び泣き崩れてしまった。
「おかしいと思っていたんだ。」
 常田はこの時口を開くべきではなかったと今になって思う。子供への憧れが潰えた拍子に出た無神経な一言はそれまでの信頼を踏み砕き、二人の間に決して取り払われることのない確執を残し、その日から夫婦の間で子供の話をすることは暗黙のうちに憚られ、夫婦の営みは今日まで一度もなかった。
 しかしながらそのようなことがあっても今なお、生活を共にしているというのにはやはり、出会った頃のような火のつくような心持ちではないにせよお互い想いあっているからであって、それがことさらに常田を後悔に苛ませていた。
 九
 常田はジャケットを脱ぎ捨て、鞄を置き、しゃがみ込んで少年を真っ直ぐに見つめ、自分の胸に抱き寄せた。それは衝動的でありながらも先の経緯のために消化されることのなかった、抑圧されていた父性のための行動であった。また常田の左の掌は少年のパンツの後ろポケットに財布のようなものを見つけたが、彼にはそんなこともうどうでもよかった。二人は閑静な住宅街の往来で恥ずかしげもなく抱き合い、じっと動かないまま円くなった。
 九
 少年が泣き止んだころ、二人はようやく離れた。常田も少年も、シャツを肌に張り付かせて、顔なども涙か、汗かも分からないほどにびしょ濡れにしていた。
「喉渇いただろう、なにか冷たいもの飲みに行こうか。」
 常田は少年の泣き腫れた目を見て言った。すると少年の顔がまた曇って、後ろのポケットから、恐々と財布を差し出した。常田は少年の肩に置いていた手で財布を受け取ると、その逆の手で少年の頬を打った。抜けるような高音が確かに響いた。常田はそれから何も言わず少年の手を取って歩き出した。
 十
 常田は跡をつけている者の気配を感じ、角を曲がったところで待ち伏せた。わざとらしく背を屈めて曲がってきた者はぎゃあと声を上げ、二歩ほど飛び退いた。男の声であった。しかし常田は跡をつけていた者の姿を見ても、男なのか女なのか咄嗟には判断がつかなかった。よく見ればその者は化粧をして、女物の服を纏ってこそいるが女には到底見えない、女に見せるための要素を持った不気味な男で、この男もやはり、顔をびしょ濡れにしており、流れた化粧がフリルのついた白いブラウスの首元に染みていた。
「何かご用ですか。」
 常田は嫌悪感を隠そうともせずに聞いた。
 「その子の知り合いのものですけど。」と男は明らかに声色を変えた女声を絞り出す様にして言った。常田は少年の方を見るも、さほど驚いた様子もなく見慣れたといった表情でいたのでひとまず警戒を緩めた。
「ではとりあえずあなたも一緒に来てください。この少年のことを訊きたいので。」
 中年と少年と女装との三人が汗だくになりながら街をゆく。すれ違う者はこの異様な集いを二度見三度見してから、それでもなお、好奇の目を向け続けた。先ほどから常田本人さえもおかしいと感じているのだから、それは当然のことだった。
 しばらく歩き、商店街の通りに一軒の純喫茶を見つけると、常田達はいそいそとそこへ入っていった。店内はエアコンが十分に効いており寒いくらいだった。身震いしている少年に気付いた常田は、腕に掛けていた自分のジャケットを少年の肩にかけてやった。店内には薄汚れたエプロンをつけた無愛想な中年の店主がカウンターの向こうに立っているだけで他に客はなく、店主の方もちらとこちらを見るばかりで、迎える言葉もなく、グラスを洗い続けている。一番奥の四人がけの席に女装と少年が隣り合わせに、常田はそれと向かい合って腰掛けると、店主が水の入ったグラスをテーブルに置き、「注文はお決まりですか。」と尋ねた。
「アイスコーヒーをひとつと、君は何にする?」と常田は少年の方だけを見て尋ねた。すると女装は神妙な顔をして「この子は口が聞けないんですよ。」と言った。常田は虚を突かれ密かに動揺し、なるほど、とだけ呟いた。女装はメニューを少年へ差し向け、指差し、少年がうなずいたところで「アイスコーヒーをもう一つと、コーラフロートをください。」と店主に伝えた。店主が厨房へ引っ込むと、常田は女装の方を向き直っていくつか訊いた。
「君はこの子と、どう言った関係かね。」
「私はこの子の保護者です。というよりもそれはこちらのセリフですよ、あなたこそ誰なんです。」人目が無くなったためか、男は先程より数段低い声でそう返した。常田はいかにも少年の親を気取ったような自分の言動を恥じた。それでもこの男が保護者というのには納得がいかなかったので質問には答えず、「保護者?」と当て擦りに呟いた。
「なんです、おかまが保護者ではいけませんか。」常田は真意を見透かされ、僅かに唸ったが、
「いや、そういう意味でなく、君が若すぎるような気がしたんだ。」と誤魔化した。
「確かに私はこの子と親しいただの隣人です。ただ……。」男が言い淀むと少年はアイコンタクトで何やら伝え、男はグラスの水を飲み干すと、再び口を開いた。
「この子の親はおそらく、亡くなりました。」
 常田は唾を飲みんで「タバコ、吸ってもいいか。」と言うと二人がうなずくのを見てから、灰皿を自分の方へ寄せ胸ポケットのタバコを取り出して火をつけた。赤く燃える火先に今朝見た鉄道自殺を思い出し、もしやするとなど思案させられた。常田が吐き出した煙りは静かに昇った後、空調の方へ吸い込まれていった。タバコを灰皿へ押し付け、飲み物を運んできた店主が去るのを待ってから、常田は尋ねた。
「おそらくと言うのは?」
「それが昨日の夕方頃にこの子の父親が訪ねてきて、綴じてある封筒を二つ、私に渡したんです。そのうちの一つには明らかにお金が入っていて、私がいくら尋ねても、必要になるから、というばかりで。
 私もその日は夜の仕事へ向かうところでしたから、明日にでももう一度聞いてみようと思ってそのままにしておいたんです。それで、今朝帰ってから、ふともう一つの封筒が気になったので開いてみたんです。中身は遺書と、公的な書類のようです。」男は鞄から白い封筒を取り出して、それを常田に差し出した。封筒には紙が二枚入っており、一枚には押印がされていた。常田が封筒の口を開きながら少年の方を見ると少年はどうにかこちらの話を聞かないようグラスに浮かぶバニラアイスから視線を外さずに少しずつスプーンで掬い、口に運んでいた。この痛ましい振る舞いに心打たれながらも、常田はコーヒーを一口啜ってから、遺書を読み進めた。

 突然のことですまない、とうとう、借金を返済し終わったんだ。ただその代わり今度は僕の体がもう持たなくなってきているみたいなんだ。君になら僕の体の変化はわかっていただろう。僕は君を信頼している。なにより情けなく、心苦しい思いではあるが、正一のことを頼みたい。どうかお願いします。
         池田晴久

 常田は晴久という男のあまりの身勝手さに憤りを感じたが、それをどうにかアイスコーヒーで腹の底に下した。少年がトイレに立ったのを目で追いながら「君が親代わりになるのはどうなんだろう。親戚でもないんじゃあ母親がいるならまずはそっちだろうし、そこがダメでも親類、あるいは施設に行くのが普通じゃないのか。」と尋ねた。
「正直なところ、私が正一くんを引き取るというのは現実的な選択ではないと思います。確かに晴久さんと私の間は特別親しい仲ではありました。しかしながら、私の収入や、勤務時間を踏まえて考えると、正一くんに一定の水準以上の生活をさせることは正直なところ不可能です。」
 男が母親について語らないと言うことは、そちらの方は全く期待できないのだろうと常田は解釈した。束の間の沈黙の後、常田は「君と彼の父親とはどう言った関係なのかな。」と聞いた。男は少年の座っていた席を見やってから、バツの悪そうに「体の関係です。それも——しばらくの。」と言った。グラスの氷が溶け、かろんと小気味の良い音が常田の言葉の出掛かりを遮ったせいで、二人の間にまたしても沈黙が流れた。トイレから戻ってきた少年はまた密かに涙を流したのだろう。目元にトイレットペーパーの滓をつけて高さの合っていない椅子になんとか腰掛けると、コーラフロートを啜りだした。
 それからあとはもうなにも話さなかった。ただ、各々のグラスから発せられる音のみがあって、時折冷えた空気が常田の濡れたシャツを通り抜け、肌を痛いほどに粟立たせた。
 会計をするために財布を開くと律儀に収まっている一枚のくじ券がのぞいていた。
 これさえあればあの子は——。
 当選金額は二千万円で、この国で子供一人が育つに十分な金額は一千七百万円ほどである。常田はこの仕向けられたような偶然に運命めいた何かを感じていた。
 常田は男に名刺を渡して店を後にした。その場で援助を申し出るのもやぶさかではなかったが、もう少し事が落ち着くまで待っても遅くないと考え、あちらから連絡してくるのを待つことにした。また、今のまま行動するのは軽率だともわかっていたからである。妻は見ず知らず子供の養育費を自分が払おうとしていると聞いたらどんな顔をするだろう。常田はふと、一度も少年の名を呼ばなかったことを後悔した。
 ——正一、正一か、次に会うことがあれば呼んでやろう。
 そう心に決め、高く上がった日の真下で大きく背伸びをした。
 十一
 常田が家に帰ったのは午後二時頃であった。玄関を開けるなり、千里子が出てきて「あなた、どこへ行っていたの?会社からあなたが来ていないって連絡が。」と不安げに問いかけた。常田はようやく会社のことを思い出した。咄嗟に「ごめんな、あんまり暑いもんだから具合が悪くなって、少し休んでいたんだ。会社には連絡してあるから。」と嘘が口を吐いて出た。千里子はそうなの、心配させないで、と呆れた表情を浮かべ「あ、あとお弁当、忘れていったでしょう。」とついでのように付け足し、リビングへ戻っていった。常田は先ほどの出来事について、こともなげに話してしまおうかと思ったが、これもやはり話すべきではないと思い、軽い愛想笑いを浮かべるに留め、妻に見られないようにこっそり電話線を抜いておいた。
 十二
 利一は正一の手を引いてアパートの鉄階段を登った。
「あんた今日学校行かなかったでしょ。」
 当然正一は何も言わない。
 玄関先まで来ると正一がこれまで住んでいた方の部屋に入ろうとするので、利一はそれを引き止め言った。
「いい、今日からしばらくはうちに泊まって行きな。少し考えてどうにかするからそれまでの辛抱だよ。」
 正一は納得いかないといった面持ちで、理一の部屋の玄関をのたのたくぐった。
 利一はその小さな背中を睨んだ。子供のくせに全てを知っているとでも言いたげな目つきも、あの父親から生まれてきたとは思えないほどの愛想の悪さも、なによりそれらを補ってなお余りある、優れた美貌が利一を苛立たせた。それでも晴久のことを思えば、正一を邪険に扱うことは出来ず、また彼の世話を焼くことは晴久の変化に気づいていながらも何もできずにいたことへの贖罪だとも考えていた。それにしてもあの男は何者だったのだろう、なぜ私は何もかも話してしまったのだろう、利一はそう考えながら部屋に入った。
 会話もないままに過ごしていると時刻はすでに午後四時、普段なら利一は出勤の支度をして、出かけなければいけない時間である。利一は狭いアパートに不釣り合いな、大きな姿見に映った自分を酷くおぞましいと思った。すぐさま服を乱雑に脱ぎ、ユニットバスに飛び入る。シャワーをかけ流し、クレンジングオイルで顔を擦る。この頃は肌の質感も利一を女として抱く客達とそう変わらなくなってきている。それを思うとまたストレスで肌は荒れる。心の不安定はなにより肉体に現れている。利一の固定客だった一人の男はこの間入った新人ばかり指名している。馴染みの役場職員も近頃店に来ていない。また淀み、「というか本当に死んだのかな晴久さん。」利一はふと呟いた。
 晴久の魅力は女にしかわからない、反対に男達からは無自覚のうちに嫌われてしまう性質で、そのために晴久はどんな仕事もうまくいかず、果てには借金まで抱え、このようなことになってしまうのだろうと利一は考えていた。
 整った見目にモデルの様なスタイル、よく笑いかと言って特別善良な訳でもなく、人間的には嫌なところもある。またなにより情けなく、弱い。それら全ては愛おしく、晴久の隣に居たいと思わせるような仕組みになっているのだった。利一は晴久を自分の人生において二番目に愛した男だと決めている。繰り上がることも繰り下がることもない、絶対的二番目である。
 ——晴久さんは死んでしまって、それで良かったのかもしれない、あの男は生きている限り皆を不幸にする。
 利一はバスタオルで体を拭いながらそう思った。利一は正一に目もくれず、顎まで伸びた赤茶色の髪をドライヤーで乾かし、ヘアオイルを撫でつける。この間デパートで買ったアンチエイジングクリームをたっぷりと塗り込み、ゆったりしたシルエットの黒いワンピースを被る。化粧下地と簡単なアイメイクを済ませるとマスクをして残りは店についてからすることにした。数年前に客から買って貰ったエルメスのショルダーバッグを担ぎ、ようやく少し考え個人用のスマートフォンと財布から二千円を抜き出してテーブルに置いて、「これで一晩なんとかして。携帯の使い方くらいわかるでしょ。」と告げた。正一はいまだ何も言わずに膝を抱えたままであった。
 利一は通っていた大学を二十歳で中退、両親と大喧嘩の末家を飛び出した。生来の性愛もあり、さしも考えず新宿のニューハーフヘルス「ドルフィン」の門を叩いた。「さえ」という名前で勤めてもう七年になる。体を売ることに抵抗はなく、なにより自分にはこれの他に金の稼ぎようはないと分かっていた。それでも利一は自分のことを同性愛にカテゴライズするべきではないと思っている。それというのも利一の性の対象は女性として生まれたはずの自分だからである。それ故に女の格好をして、メイクをした自分に劣情を催し、より美しい自分に憧れを抱く、いわば幻獣に恋焦がれているのだった。その為に家族のこと、親しかった友のこと、残してきたものを彼は残らず捨て去った。そう遠く離れたわけでもないが自分自身として生きるのが全てなのだから興味がなかった。また一度立ち昇ったものを再び押し込めることは不可能に近かった。それでもこれが賢い生き方でないのは利一自身よくわかっていた。
 十三
「さえちゃんおはよう。」
 利一が一時間も遅れて出勤してきたことについてボーイは何も聞いてこなかった。それはこの店において利一の価値が落ちてきていることを暗に表していた。
「おはようございます、今日指名ありますか?」
「えーとね、五時半にフリーが一本と、あー、七時生本さんだねぇ。来て早々で悪いけど準備済ませちゃってくれる?」
 生本というのはもう三年ほど利一についている常連の客で、本名を中本というのだが、「生でいい?」ときまって頼み込んでくるので店の者にはそう呼ばれている。
 利一は自分でも不自然だとわかるほどの作り笑いを浮かべたままボーイと軽く雑談した後、待機室のドアを引いた。体臭、香水、化粧品、ボディソープ、タバコ、ジャンクフード、篭った室内に充満するそれらの匂いが混じり合うと、なんとも不快なものとなって利一の鼻をついた。利一はこの店に在籍するキャストの内三番目に年齢が高い。もちろん中には見るからにサバを読んでいる者もあるので、公表されている限りではと言うことになるのだが。その上この日はたまたま若い者ばかりが出勤していたので、おざなりな挨拶の先、利一の相手をするものはいなかった。利一は「さえ」へと姿を変えるために不自然に開いている一番端の鏡台の前に座してメイク道具を手に取った。
 十四
 利一はフリーの客を玄関先で見送ると、待機室に戻り、ソファーに乱暴に腰を下ろした。軽く化粧を直し、炭酸水を飲んだ。部屋に入った利一を見るなり気落ちしたような表情を浮かべていたあの男も事が終わればそれなりに満足したようで、溌剌として帰っていった。この店に来る客は皆晴久とは違った、情けない感じがする。そのくせ必ず惨めなプライドを持っていて、それが隠しきれていない、そんな男ばかりである。利一はこのことに気づいてから仕事のことであまり悩まなくなった。誰かに教えられたわけでなく自然にそう思えるようになったのが利一の秀でた部分であり、この店に長くいられた理由でもあった。
 中本が来るまでにはまだしばらくあった。そのうち利一はうとうと眠ってしまい、とうとう時間になっても目覚めなかった。利一はボーイに揺り起こされ、うつらうつらしながらも中本の待つ部屋に入った。
「待たせてごめんなさい、ちょっと寝ちゃってたみたいで。」
「そうなんだ、疲れてるんだよねきっと。マッサージしてあげようね。中からも外からも、ね。今日は生でしてもいい?店には内緒でさ、チップあげるからさあ。」
 利一はそれになんと答えたか自分でも分からなかった。ただ、コンドームをつけずに中本のものを受け入れるという結果だけがそこにあった。それも初めてのことではなく、ここしばらくはずっとコンドームを使用していなかった。
 ——なにも子供ができるわけでもない。
 その考えがこれまで利一が正面からは向き合わないでいた真実を受け入れ、無自覚のままに自己を否定してしまうことになるとは気付いていなかった。
 十六
 利一が家に着く頃にはもう日が変わっていて、雲のない闇空に浮かぶ蠱惑的な三日月がビル群の隙間に顔を覗かせていた。鉄階段を音を立てないよう慎重に登る。部屋の電気はまだ点いており、深いため息を一つついてから扉を開け中に入ると、覚えのあるアルコールの混じった吐瀉物の匂いが利一の鼻をついた。靴も脱がず急いで部屋に駆け入ると、床にはビールの缶がいくつか転がっており、まだ新しいものと見える吐瀉物に塗れて正一が横たわっていた。床に落ちているスマートフォンを拾い上げるとデリバリーアプリから酒の注文履歴の通知が入っていた。
 正一はいわゆる火遊びで酒を飲むような子供ではない。これが追い詰められた末の破滅衝動の発露なのは明らかであった。
 利一はぐったりとした正一の体を抱き起こし、自分の飲みさしの炭酸水を無理にでも飲ませた。なんとか意識はあるようだったが正一は一度飲み込んだそれをそのまま吐き戻した。利一が健気に何度も何度もそれを繰り返すうちに次第に唇に赤みが戻ってきて、青白かった顔色も幾分良くなった。ひとまず大丈夫だろうと利一は胸を撫で下ろし、正一を抱きかかえベッドへ寝かせてから、酷くべとつく頭を優しく撫でてやった。じきに静かな寝息を立て始めた正一に晴久の面影を重ねてしまい、利一は少しばかり涙を流した。開け放した窓から部屋へ吹き抜ける生温い初夏の風は部屋に立ち込める重苦しい雰囲気をどこかへやってはくれなかった。
 十七
 利一は眠ってしまっていたらしく、煌々と差す朝日で目を覚ますと、ベッドに腰掛けこちらを見下ろす正一と目が合った。
「朝ご飯買いにコンビニ行くよ。」
 一晩の間で変化があったのは利一の心境で、それと言うのもいくら大人びているとは言え正一はまだ子供で、いくら利一が晴彦を愛していたからと言え親を亡くした悲しみに勝るものでは無いと気付き、正一が不憫に思えたからであった。
 利一は化粧も落とさず眠ってしまったことを後悔しながら洗面所へ向かい、顔を洗った。正一と連れ立って歩くのは初めてのことで、誰に見られるかもわからないと無難なパーカーとパンツに着替え化粧をしないまま出掛けた。久しぶりに着た男物の服はやはり体に合っていて、利一の普段の努力を無碍にするほど動きやすく、極めて自然に歩くことが出来た。それでも正一に歩調を合わせると、コンビニに着くまでいつもとそう変わらない時間がかかった。
 利一はカゴを手に取り、決まった棚をいくつか回ると、入り口あたりで戸惑っている正一の後ろについた。小瓶一本でレモン数十個分のビタミンが取れると言う信じ難い飲み物に、糖質をカットしたブランドーナツ、それと燻製した鳥の胸肉。楽しみのない、食べなければいけないといった脅迫観念に駆られるいつもの朝食である。
「早く選んでよ。」利一は正一の背を押しながらぶっきらぼうに言った。すると正一はキョロキョロしながら店内を回り利一が持っているものと同じものをカゴに入れ卑屈そうに笑った。その途端に利一の中で何かが弾けた。
 ——こんなもの美味しくもなんにもないのに。
 利一は目のついたものからとにかく手当たり次第、カゴに入れていった。菓子、パン、おにぎり、ジュース、コーヒー、山盛りになったカゴをレジに突き出し、しまいにはホットスナックまでいくつも注文した。利一はパンパンになった袋の一つを正一に持たせ、「私は子供なんて育てたことがないから、あんたにまともな食事させるつもりもないの!」と捲し立て、正一の頭を揺らすほど乱暴に撫でた。ようやく正一の思い詰めた様な表情に柔和で子供らしい笑みが浮かんできた。
 十六
 二人の関係性については多少良い方へ向かったものの、先々のことは手付かずのままであった。利一は中華まんを頬張る正一を横目に、ふとあの男のことを思い出した。素性も知れない男を頼るのは無謀な事の様に思えるが、利一はあの男を信用していた。と言うのも男はそれなりのスーツを着て、それなりの時計をしていた、結婚指輪はおそらくプラチナ。ある程度の裕福さを持った人間はそれらを守るために破滅的な行動に出ることはないと、踏んだからである。利一はスナック菓子の袋を開け手に取り口に放り込んだ。舌を刺すような塩味に、小気味良い歯触り、ぎとつく油、いくらでも食べれる気がしたが、タガが外れるのを恐れ、結局はいつもと変わらない、またいつもより味を感じなくなった朝食を取った。
 十七
 常田はスーツのタグにホッチキスで止められたクリーニング済みの札をむしり取り、羽織った。革靴を履いてネクタイを締め直し、鞄を下げ家を出る。これらはもう長いこと続けた動作だというのに、会社という行先をなくした今ではずいぶん煩わしいことのように思えた。千里子は珍しく玄関先まで出てきて、「今日の昼からは雨が降るんですって、折り畳み傘持っていってね。」と常田を見送った。
 常田は会社へ向かうのとは反対方向の列車を待ち、来ればそれに乗り、目的の駅の一つ前で降りた。あたりをゆき交う目的を持って歩く者達は視線をまっすぐに据え、常田を次々追い越してゆく。それに追いつけなくなった常田はわざと流れに逆らうように、ゆっくり改札を抜け自分を保った。
 この頃家でも会社でも銀行へゆくのは他の者に任せっきりで、その上宝くじを引き換えるなんてことは初めてのことだったので常田はやや緊張していた。くじ券を鞄から取り出し、それを握ったまま拳を右のポケットに仕舞い、整理券を取った。
 窓口の方では工員姿の老人が随分な剣幕で怒鳴り散らしていて、常田はかろうじてそれをみっともないと感じることができたが自分がこの先ああはならないとは断定できず、あのような感情に抗いそれに負けることが老いなのだと自分を戒めた。ようやく順番が回ってくると常田はポケットからくじ券を差し出し当選した旨を伝えると受付の女性は引っ込んでしまい、代わりに奥の方からやや貫禄のある常田と同年代ほどの男が現れ、小部屋に案内した。案外と手続きは簡単な物で身分証明に書類の記入、それとどこか説法めいた説明事項を聞き終わればそれで入金の手続きは済むということだった。それらを終えても常田は通帳に記載された二千万の数字をまだ実感できずにいた。なにより妻に隠していることがまた一つ増えたことが申し訳なくなってきていた。
 ——今ならまだ踏みとどまれる、二日程度の欠勤なら頭を下げればなんの事はない。そうだろう、では何がそれを拒み、私を堕落させているのだろう。今こうして責務から逃げたところで何かやりたいことがあるでもなく、それどころか罪の意識に苛まれ、これまでの生活に戻れたらと願っているというのに、なぜ私は未だこうして立ち止まっていられるのだろうか。
 常田は愛する妻に全てを話し、知らぬ間に足を踏み入れ、嵌まり込んでしまった穴から引き上げてもらうほかないと考えた。また妻ならば必ず救ってくれるという信頼のもと、帰路についた。
 妻の忠告通り、太陽にはどんよりとした雲がかかって、今にでも降り出しそうな空模様であった。
 自宅の最寄駅に着いた常田は花屋に寄ってガーベラを何本が見繕って花束にしてもらい、とうに忘れたと思っていた青い気持ちで玄関の前に立った。少しあざといとも思ったけれど、妻を喜ばせたい気持ちが彼にそうさせた。
 左手首の時計をちらと見てから右手でゆっくり扉を引いた。かちゃりと音を立て、少し開いた隙間から香ったのは嗅いだことのない香水の匂いで、常田は戸が閉まるのを扉の重みに任せず手で押さえながらひっそりと入った。玄関にもやはりこの家のものでは無い革靴がきちんと揃えて脱いであり、常田もその隣に揃えて靴を脱いだ。廊下を二歩、三歩と進むと囁き合う声が微かに聞こえ始め、また一歩進むとそれが少しばかり明瞭に、寝室の前まで来れば扉を開けるまでもなく、睦会う男女の発したものと分かった。常田は跪き、右掌と右耳を扉に引っ付けた。
「いいんですか、課長のことは。」
「いいと言うか、うん。あの人のためでもあるから。」
「手慣れていて、少し怖いです。」
 衣服の解ける音に重なり、腕時計がこち、こちとさえずりながら時を刻んでいる。ベッドがゆったりと軋み、弾けるような接吻に続き、今度は血流が滞るような、深い接吻。肌と肌が滑らかに擦れ合い、絡み合い、しがみついた。滴るような水音に共鳴するかのごとく女がいきむ、時折震えながら息を細く長く吐き、快楽の波に攫われるのをどうにか堪えている。
 包装を破き、床に放った。ぱんとゴムが肌を包み、いよいよ二人は繋がるのだろう。
「いいの?」
「もう灼けちゃいそうなの。」
 その言葉を皮切りに、二人はシーツの上を滑り、かすかな声を漏らすと、再び短く唇を合わせた。
 そこから先はまるで球が坂を転げ落ちるように勢いづいた男女が腰を打ちつけ合い、身を捩り、喘ぐ。弱気だった男がなじるように「気持ちいいの?」と訊けば、女は響きを殺して笑い、すぐ苦しむように善がった。耐えきれなくなった常田は震える胸を強く抑えながらゆっくりと扉から距離を取った。
 常田は冷静ではいられなかった。視界の端が歪んで見え、立ち上がる足がふらついた。鮮やかな花束を玄関先で踏みにじり、叩きつけるように扉を閉めその場を去った。高鳴る鼓動の規則正しいテンポは先ほどのセックスを想起させ、心臓を止めてしまいたいほどであった。
 常田は自分が走っているのか止まっているのか分からなくなった。それは彼の中で妻をあの淫らな女にどうにか重ねないよう精一杯だったからである。千里子は常田が良いとする美術や音楽をあまり理解しようとしなかったが、特別料理が上手かった。料理は美術や音楽にも劣らない芸術であるのだから、それを素晴らしいと常田は口には出さずともいつも思っていた。また、千里子は感情を剥き出しにしないようにすることもできた。それは賢人ならでこその特徴で常田が思い悩んだ時にはいつもその冷静な彼女の言葉に救われてきた。その上千里子は無邪気で、謙虚で、花が好きで、地震が嫌いで、何をするにもたおやかで可憐で純で暖かで頑固でとにかく、とにかくあんなことをするような——。
 鞄の中の携帯が震え出し、それが常田の溢れんばかりの思考を堰き止めた。
 ディスプレイに表示された番号は登録されたものではなく、常田が絶え絶えになった息を整えている間に切れてしまった。常田が履歴の操作をするより早く二度目の着信。
「もしもし、えと常田さんのお電話で間違い無いでしょうか。」聞こえてきたのは女装男の声であった。
「あ、常田です。ええとそちらは……。」
「白石です。少し正一のことで相談させていただけないかと思いまして。」
「そうか、うん、そうだな。もし君さえ良ければ今からでも会えないか。」
「私の方は構いませんが……、お仕事は大丈夫なんですか?」
「うん、もうせかせか働かなくともいいような役職を頂いてるからね。この間の喫茶店でもいいかな。」
「わかりました、ではお願いします。」
 常田が電話を切ると、彼のすぐ後ろに千里子の幻惑が迫ってきたが常田はそれに追いつかれないよう、早足で駅へと向かって歩き出した。

 降り出してからすぐに強まった雨足は女性たちを走らせた。利一はコーヒーにガムシロップを入れながらそれをおもしろいと思い見ていた。また傘を持たずに出かけることの身軽さを実感していた。

#小説

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