盛夏/二〇二三

また東京で夏を過ごすのかと考えた。東京での記憶は学生のときのことが殆どになるが、そちらはどうも曖昧だ。あんな溌剌とした場所に自分は本当に4年もいたのかと自信がなくなる。違うひとなんじゃないか。

代わりに母親の地元であった大森のお祭りに、仏頂面の祖父に手を引かれて歩いたことが思い出される。幼児と老人の食い合わせは悪く、まともなコミュニケーションがないから怖くて堪らなかった、今は何だか申し訳なかったなと思っている。

或いは神輿が流れていくの母親と眺めたことが思い出される。同じ祭りのときだったかは定かでない。
恐らく違う。いつか死んでしまうこと、どうやっても避けられないこと、そういうことにひたすらに怯えていた時期と重なっているような気がする。

どうやって折り合いをつけたのかよく思い出せないけれど、今だって怖い、のだから段々鈍くなることに任せたのだろう。
死んだら星になるとか言う。燃された身体は(二酸化)炭素やらなんやらで確かに地球(ほし)に還っていく、雨やら空気やらで他の生き物に廻っていく。そう考えると多少気が楽に、とはいかないが、思ったりする。

100年ぽっちを渡されて何ができるだろう、怯んでしまう。せめて、好きなものを、ひとを好きと言って行きたい/生きたい/逝きたい(これはクサすぎるね)。とはいえ嫌いなものを嫌いだと言うのはもう十分にやったはずで、そりゃあ悪態つくこともあるだろうが、誰かを恨んでやってる暇なんてもう人生に残っていないだろう、と思いたい。

理屈なんかない自由さが夏にはあるんじゃないか(夏休みか、それは) 、分かりやすく物事が輝いてひかる季節に感じる。
全部燃え上がればよい。恐怖や哀しみ、愛だの恋だの、命だってなんだって、灼き尽くした先に何がなくても。スパークする心を、少しのあいだで構わないから手に取らせてほしい、折角暑い夏なのだ。

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