雨乞いとは

私の尊敬する、いわき市の生き字引・夏井芳徳さんのラジオ番組「磐城九代記の世界」(FMいわき)の中で、「雨乞い」という言葉が気になったので、この本を読みました。

坂出祥伸『日本と道教文化』(2010.3、角川学芸出版)角川選書

ふと耳にしたり目にした言葉などが気になると、すぐ図書館のホームページで検索してしまう癖があります。
すると、たとえ完璧に該当しなくても、似たような本を読みたくなるときがあります。
今回は、1ヶ月以上前に番号をひかえて先月借りたので、どうやってこの本に辿り着いたのか記憶が無いのですが(苦笑)、「雨乞い」に関する記述があったので、満足です。

古都・京都には二条城の近くに有名な神泉苑があり、(中略)ここには、空海が天長元年(八二四)、請雨経法を誦読して雨を降らせたという伝承があり、これは有名であるが、真偽は不明である。また、山科・小野には、随心院という真言宗の門跡寺があるが、ここに曼荼羅寺を創始した仁海は祈雨の卓越した呪法能力を備えていたとして雨僧正と呼ばれ、以来、その血脈を受け継ぐ小野流は請雨経法を修し、広沢流は仁和寺の寛助以降、孔雀経法を修することで、それぞれの流派の基本としていた。請雨経法というのは、不空撰『大雲経祈雨壇法』と不空撰『大雲輪請雨法』の二経典を指す。平安時代には祈雨を行う場合、この二経典に依拠する誦読と、不空撰『仏母大孔雀明王経』に依拠する誦読とがある。また、神泉苑がなぜ祈雨の場所となったのかについては、ここには、もとインドの無熱達池にいたという善如龍王が棲んでいるという言い伝えがあったからである。空海が神泉苑で祈雨を修した時、この善如龍王が現れて祈願が成就したという。
 旱魃の際に雨乞いをするのは農業社会では国家の安定を保つための重要な儀礼である。中国では古くから「雩」と呼ばれる雨乞いが行われていたことは、『論語』「先進篇」に「雩のときに舞いをする」と見えている。これは春秋時代のことである。しかし、具体的なありさまは、前漢時代、前一世紀の董仲舒の著した『春秋繁露』「求雨篇」に記載されている。それによると、春の旱には県城の東門の外に四方に通じる神壇を設け、そこに土で作った大龍、小龍を置き、児童などが潔斎した後に舞を舞う。さらにその壇に雄鶏や豚を置いて薪を積んであぶる。そうすれば雨が得られる、というのである。夏と季夏にも同様の儀礼が南門の外で行われる。龍を祀れば天神が応えて雨を降らせるというのは、一種の共感呪術である。その後、このような民間で行われていた祈雨儀礼は道教にもとりこまれたと思われる。
 雨乞いを記載した最も早い道教経典は南北朝時代に著されたと推測される天師道系統の経典『赤松子章暦』巻三の記載かと思われる。しかし、当時の天師道では、旱魃は「鬼」のなせる所為と考えていたので、太上大道君という最高神や、その属神である河伯などの水神にひたすら祈って降雨を求めている。

坂出祥伸『日本と道教文化』(2010.3、角川学芸出版)

……興味深くて長々と引用してしまいました。

調べるの、大好きです!