04垂れ幕の一部

平塚の大久保公園と諏訪町

 大久保公園は平塚市諏訪町の一角に立地する都市公園です。公園内には、無料のプールや鳥籠、大きな滑り台があり、都市公園としてはなかなか大きな規模を持つ公園です。

 この大久保公園の名の由来は徳川家康に仕え小田原藩主を務めた大久保家によるもので、大久保家の屋敷の跡の一部が公園になりました。大久保公園の正門横に建碑された「瑞祥の碑」には大久保公園の由来が刻まれています。この「瑞祥の碑」に基づきながら、明治維新後の同家の動向と大久保公園、周辺の諏訪町について紹介します。

01_顕彰碑

大久保公園瑞祥の碑

●諏訪町周辺の歴史と平塚城
 大久保公園が立地する諏訪町は砂丘で弥生時代の土器などが出土しており、古代から人に利用されてきた土地であったことが解っています。

 武士が活躍する中世においては大久保公園西側の平塚農業高校から八雲神社周辺の一帯が平塚城跡として平塚市の遺跡包括地域に指定されており、明治初期までは「内堀」、「外堀」などの地名が残されていました。
『鎌倉大草子』や『鎌倉九代記』、『関東合戦記』などの戦記物と言われる書物には大森伊豆守の持城として平塚城の名がみられ、太田道灌によって攻略されたと記されています。しかし、これらは武蔵平塚城と混同されており、文献上ではこの平塚城の存在が確定していません。

 平塚城の戦死者を葬った観音山などの旧跡が現在も残されており、近隣の宅地造営の際に多数の人骨が出土したという地元住民の証言もあり、同地において大規模な合戦が行われていたことが考えられます。

 大久保公園の西に接する道路は徳川家康が江戸・駿府間の往来時に使用した中原街道にあたります。また、大久保公園は家康の中原御殿の南約1㎞の至近距離に立地しており、後世の大久保家による宅地造営以後も中原街道が残されていることを考慮しても、徳川恩顧の大名家として親しみ深い地だったのでしょう。

●明治維新後の大久保家
 戊辰戦争の混乱の中、大久保家当主大久保忠札(ただのり)は一度新政府軍に叛いたことから蟄居を命ぜられ、藩主不在となった小田原藩には荻野山中藩(厚木市)から忠良(ただよし)を養子として迎え入れました。忠良は明治2(1869)年の版籍奉還で小田原藩知事に任じられた後、明治3(1870)年には藩の財政難から小田原城の維持ができないことを理由に廃城届を政府に提出しており、早くも同年12月には天守をはじめとする建造物が解体されてしまいました。明治4(1871)年7月に廃藩置県が施行されると小田原藩は小田原県となり、藩知事を免職された忠良は政府の方針により前当主忠札と共に東京へと移住することになりました。同年9月、忠良は現在の慶應義塾大学に入学しており、明治8(1875)年7月、病気を理由に大久保家の家督を忠礼に返上した後、明治10(1877)年3月29日、西南戦争に従軍し熊本県山本郡において戦死しています。享年わずか21歳という若さでした。忠良が戦死してしまったため、大久保家当主には忠札が復帰しました。

 明治6(1873)年以降、小田原城は陸軍省の管轄下に置かれました。明治20(1887)年、当時の小田原町は小田原城の払い下げ請願をしますが認められませんでした。しかし「縁故者には特別に払い下げる」との内規を聞きつけたため、小田原町は東京の大久保家に払い下げ申請を願い出ました。当主大久保忠札はもはや不要の土地として応諾しませんでしたが、その後の交渉によって応諾し陸軍省に払い下げを請願しています。よって、明治23(1890)年2月20日、城地の既に軍用地として利用している土地を除いて当時の金額1万円で大久保家に払い下げられました。翌年明治24(1891)年12月、小田原町は大久保家に払い下げられた土地のうち12町2反2畝(約12万2千㎡)を5千円で買収、残りの6町余りを無償で大久保家から借り入れ、利益は小田原町が預かることになりました。
 明治26(1893)年10月には大久保家を顕彰する意味で、小田原町が無償借用していた天守台に藩祖大久保忠世を祀る大久保神社を創建しており、小田原町の新たな象徴となりました。

 明治32(1899)年、小田原城に御用邸建築計画が持ち上がり、小田原町、大久保家ともにこの光栄に浴したいとの希望から、小田原町は宮内省に所有地を売却、大久保家からの借用地を同家に返却しました。大久保家は所有地全てを献納する予定でしたが、平塚の御料林と換地することで折り合いがつけられました。なお、大久保神社はこの時に現在の小峰に移されています。

02_滑り台

築山を転用した滑り台

●大久保公園と諏訪町の造成
 大久保家が平塚の土地を取得時、同地は何も無いところだったそうです。当初大久保家の屋敷が構えられましたが、大正期の当主大久保忠言子爵が屋敷地を開放し宅地造成を行いました。造成地の中央に2400坪(7934㎡)の公園を造営した上で3000坪に及ぶ道路を放射状に設けた町割りを施しました。  
 昭和4(1929)年には600坪(1983㎡)の社地を持つ諏訪部神社を公園の北端に祀っており、平塚市内では初の公園として行楽客の賑わいをみせました。

 元々この地は砂丘地であったため「諏訪部ヶ丘」と呼ばれていましたが、諏訪町の町名は諏訪部神社から取ったもので諏訪部町では呼びにくいことから「部」を取り、諏訪町とされたようです。戦後、昭和21年の農地改革により土地の売り買いが認められ、現在の大久保公園は平塚市の懇請により譲渡、諏訪部神社は諏訪町自治会が8万6350円で買収しています。

●諏訪部神社
 諏訪部神社は平塚城鎮守の神として、諏訪頼重( すわよりしげ )・彦火火出見尊 ( ひこほほでみのみこと )・伊弉諾尊 ( いざなぎのみこと )・伊弉冊尊( いざなみのみこと )・素盞嗚命( すさのおのみこと )・犬頭霊神( いぬがみのみたまのかみ )を祀り、この地の砂丘地形の呼び名に因んで諏訪部神社と称しています。また、大久保家ゆかりの犬頭神社が合祀されており、犬頭神社には以下の伝承があります。

「大久保氏の先祖、三河国岡崎(愛知県岡崎市)の上和田城主宇都宮泰藤が鷹狩の最中に大杉の下でうたた寝をしていたところ、頭上の枝から大蛇が泰藤を飲みこもうとした。その時、狩に連れてきた犬が吠えて知らせたのだが、眠りを妨げられた泰藤は怒り犬の首を刎ねてしまいました。犬の首はそのまま大蛇ののど首に噛みつき大蛇は地に落ちて果てたので、泰藤はこの忠犬に深く詫び、犬神神明を称し手厚く祀り守護神としました。」

 この伝承は岡崎市の糟目犬頭神社の由来とされ諏訪部神社にも伝えられています。しかし、泰藤が埋葬したのは新田義貞の首で当時足利氏の追及を避けるために犬の首の伝承を流布したのではないかとの説もあります。小田原市の網一色には義貞の首塚と泰藤の伝承が他にあり、天正18(1590)年、小田原合戦の際に大久保家が陣を構えた地がこの網一色で、近くの八幡神社には新田社が祀られています。
 昭和の平塚の地で犬頭神社が合祀された理由は不明とのことですが、新田義貞に纏わる伝承があることは興味深い話です。

 ほか諏訪部神社には地元水天宮商店街の名の由来となった水天宮(東京水天宮より勧請)と咳の神様お茶婆さんが祀られています。

画像4
諏訪部神社

●地元自治会の方々の談話
 地元自治会の方々から伺ったエピソードなどいくつか紹介します。
 諏訪町の宅地造成後、大久保家は諏訪町内の一角に洋館を構え居住していました。
・家政婦の息子として幼少期にこの洋館を訪れた経験のある諏訪町自治会長稲毛文雄さんによると、洋館の玄関を開けると鎧兜や刀剣類がずらりと立ち並んでいたそうで、子供ながら恐ろしく感じられるものだったそうです。
 家宝は他多数存在したため、その当時の家政婦さんの話によると盗難があっても管理が行き届いていかなっかため、気づかれなかったそうです。残念ながらこの洋館は戦後火災に合い家宝とも焼け落ちてしまっています。

・前当主の大久保忠言氏は社交ダンスがお好きな方で、趣味が好じてか社交ダンス協会の会長までお務めになられ、好みの白いダンススーツを身にまとったお姿が印象的だったそうです。

 稲毛氏らの談話を伺うことができた諏訪町会館は昭和5(1930)年に青年会館として大久保家が建設、昭和40(1965)年の増改築を経て、新たに平成23(2011)年に改築されました。
 諏訪町会館には大久保家の家紋が施された垂れ幕の一部が展示されています。本来なら垂れ幕をそのまま使用するところですが、痛みが激しいため保存状態の良い一部を切り取り展示したとのことです。

 現在の大久保家のご当主は公の場を憚られる方と聞いています。
 現地を訪れてみるとかつての小田原藩主が造った町の広大さに驚かされます。是非小田原の人には大久保公園に足を運んで欲しいです。

●追記

 この記事を書いたのは平成26年6月10日発行の小田原の城と緑を考える会の会報「城と緑通信」No.95に寄稿するためのもので、報告書という形で掲載させて頂きました。
 これには小田原の人に大久保公園を知って頂きたいという想いから寄稿しましたが、それが実現したのは2年後の平成29年4月23日でした。小田原の城と緑を考える会の見学会で大型バス1台会員約50名で訪れることが出来ました。
 バス1台で大久保公園に押し掛けたことは今までに無かったということで、地元諏訪町自治会の皆さんの厚い歓迎を受けたのを思い出します。

05_見学会の様子

アクセス
JR平塚駅より「市民病院」行きバスで約15分「大久保公園前」停下車徒歩1分
※駐車場はございません。

主要参考文献:宮坂博邦『小田原市史 通史編 近現代』2001年 小田原市
山口貢 『日本城郭体系6千葉・神奈川』1980年 新人物往来社
今泉義廣 『平塚市資料叢書4 中原街道妙』 2004年 平塚市博物館
今泉義廣・片倉常夫 『水天宮商店街30周年記念会報』 1980年 水天宮商店街


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