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長興山紹太寺遺跡を歩く

 小田原市入生田の長興山紹太寺の前身は小田原藩主稲葉正則の父正勝と母の菩提寺として寛永12年(1635)、小田原城下山角町、現在の山角天神社の隣に建立された臨済宗妙心寺派の寺院でした。
 その後稲葉正則は当時最新の仏教「黄檗宗」の開祖隠元隆琦(いんげんりゅうき)の教えに感銘を受けたため、万治2年(1659)、隠元の弟子若き慧覚(えかく)こと後の鉄牛(てつぎゅう)を紹太寺へと招聘したことによって紹太寺を黄檗宗へ改宗しました。

 黄檗宗とは中国で興った禅宗五家のうちの一派で、達磨大師から11代目の臨済義玄禅師(りんざい ぎげん)を宗祖とする臨済宗の一派です。日本からの要請によって承応3年(1654)、中国福建省萬福寺の僧隠元が弟子約30名と共に渡来し伝えましたが、日本の臨済宗とは異なることから後に幕府によって黄檗宗として改称されました。その建築や仏像、伽藍形式、庭園などはこれまでの臨済宗や曹洞宗のものとは様相を異にします。

また、隠元によって美術、建築、印刷、煎茶、普茶料理、隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚など当時としては最先端の中国文化が日本にもたらされました。

 万治元年(1658)には将軍家綱に隠元が拝謁しており、その際に家綱は隠元に帰依しました。当初隠元は三年で帰国する予定でしたが、万治3年(1660)、幕府の手によって京都宇治の萬福寺が開かれ、家綱の要請によって日本に骨を埋める事を決意します。

 寛文7年(1667)、鉄牛は二代往持木庵性瑫(もくあんしょうとう)の最初の嗣法者となった期に紹太寺の退去を正則に申し出ますが、正則は僅かな敷地しか無かった紹太寺を現在の地、入生田に移転し拡張する事を確約し、鉄牛を紹太寺に引き留めました。正則は京都の萬福寺と並ぶ東国の黄檗宗布教拠点の寺院を江戸または周辺に建立したいと考えていたようです。紹太寺の移転は同年暮れより始まり、寛文9年(1669)12月18日、鉄牛が新山に入山して改めて長興山紹太寺が開山しました。しかし、まだ伽藍が整っておらず、後の寛文12年(1672)になって壮大な伽藍が完成しました。

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総門跡

 では、現在の紹太寺訪ねてみたいと思います。箱根登山鉄道入生田駅を降りて旧東海道に沿いに小田原方面へしばらく歩くと左手に広い道が現れます。これが紹太寺の参道です。かつてここには総門として二重の楼門がありました。

 この門前を元禄4年(1691)に通ったドイツ人博物学者ケンペルは青銅の噴水鉢で飾られた門前の美しさを紀行文に書き残しています。

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六地蔵

 かつて総門のあった場所左脇には六地蔵が置かれています。それぞれ寛永・慶安・寛文など時代が違い同時期に造られたものではありません。地震の被害を度重なり受けている小田原地方ではこのように江戸初期の地蔵像が揃うのは貴重です。

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現在の紹太寺こと清雲院

 総門跡から少し歩くと現在の紹太寺の山門が見えてきます。この紹太寺ははかつてあった紹太寺の五つの子院(塔頭)のうちの一つ清雲院です。

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長興山紹太寺の境界石

 清雲院の門前には長興山紹太寺の境界石置かれています。かつては7つあったと言われますが、現在そのうちの5つが確認されています。

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「松樹王」と刻まれている長興山の境界石

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本堂

 明治維新の際に寺領を失った長興山は一斉に廃院となり、清雲院だけが残されたため、寺号を受け継ぎました。現在、普茶料理が有名です。

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長興山の扁額

 「長興山」と力強い筆跡は隠元和尚のものと伝えられています。かつては総門に架けられていましたが、明治の火災により総門が焼けた為こちらに架けられました。

 本堂のお参りを済ましたら、墓地にはいくつか地元入生田に関係のある人物の墓がありますので、墓地にも足を運び見学しましょう。

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遊撃隊士の墓

 こちらは戊辰戦争の最中、山崎の戦で戦死した遊撃隊の墓です。『泰雲軒夏月道軒居士』駿河国故幕臣、篤之助改三郎良恭嫡男、朝比奈錫之助藤原良弼、行年一八歳、入生田村施主、前田定右衛門と刻まれています。18歳の若さで亡くなった駿河出身の隊士の墓とのことですが、当時は地元の前田家で介抱しましたが絶命し同家の墓地に埋葬したと伝えられています。

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長興山開発記念供養塔ほか供養塔
(左右の五輪塔除いて左から開山鉄牛父母の供養塔、開発記念供養塔、開発長興山奉行梅原源五右衛門の墓、二世超宗父母の供養塔)

 開発記念供養塔の年号が不明ですがこれを建てたのは真鶴の岩村、朝倉清兵衛で、石材関係者のようです。開発に従事した43名の土木僧衆の名が刻まれているほか、側面に総奉行・下奉行ら8名の役人名が刻まれています。開発に尽力した人たちの記念碑のようですが、碑の正面には三界萬霊の文字を中心に、開山鉄牛の父母をはじめ関係者にゆかりのある人物15名の法名と裏面にも同じく17名の法名が刻まれており、供養塔の性格も持ち合わせた珍しい記念碑です。これまで工事関係者の供養塔と呼ばれていたようですが、記念碑で正しいようです。

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田辺権太夫夫妻寄進の石橋

 清雲院を後にすると石橋が現れます。稲葉家重臣田辺権太夫夫妻の寄進と伝えられています。田辺家は稲葉家家老職の家柄でしたが、稲葉正則と田辺権太夫は主従を越えた深い関係があるようで、その関係は『稲葉家日記』などで知ることができます。橋には車が通れるように拡幅工事をした後の筋が見えます。

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360段の階段

 石橋を渡ると360段もあると言われる石段が現れます。当時の石段の石の切り込み方も見学しましょう。石一つ一つに化粧の彫り込みがしてあるのがわかります。

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石敷の参道

 360段もあると言われる階段を上ると石敷きの参道が現れます。子の参道をしばらくするとまた階段が現れます。

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鎮守社跡

 2つ目の石段手前の左手の裏大門を見下ろす丘陵上の林の中にはかつて伊勢・八幡・春日の三社が合祀された鎮守社がありました。
また、二世超宗がここで白蛇に出会ったと伝えられています。

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石地蔵跡(画像は正眼寺の石地蔵)

 石段の終りの左手にはかつて高さ2.5mもある地蔵像がありました。長興山建立当時のものですが、明治11年に箱根湯本正眼寺に移されています。お地蔵様というよりは大仏様という様相は黄檗宗ならではのものです。重すぎた為にお腹のところで切られ2つに分けて正眼寺まで運ばれました。

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放生池と透天橋

 階段を登りきると放生池と透天橋と名付けられた石橋が現れます。この石橋も稲葉家重臣田辺権太夫の寄進と伝わります。放生池はかつては近くの石牛沢から水が引かれ現在よりも広かったといいます。仏の慈悲により捕えられた魚を放す「放生絵」が鉄牛によって行われていたと考えられています。

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透天橋の先の石柱 

 石橋を渡ると石柱が左右にあります。右手の石柱には伽藍の配置に伴う名木の紹介文が刻まれていますので見てみましょう。

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石柱に刻まれた名木の紹介文

「紅白桜は天王殿前に在り、放生池、透天橋、連碧樟、共に天王殿前階段下に在り」と刻まれてます。裏には「四王松、双竜梅は天王殿後に在り、二柱桂は月台前に在り、二韓松は大殿(大雄宝殿)の両側に在り」と表同様に刻まれています。これはこの付近の名木珍樹の配置を表しており、この先に天王殿と呼ばれる楼門があり、前後に名木が飾られていたことがわかります。

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長興山紹太寺伽藍跡

 石柱の先を進むと伽藍の跡に着きます。現在は蜜柑畑になっていますが、広大な境内を伺わせます。

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現地説明版より伽藍配置予想図

 現地説明版には伽藍配置図がありますので参考にしましょう。こちらは弘化5年(1848)の法雲寺の絵図を基に旧大阪府美原町教育委員会が作成したものになります。

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「瓔珞桜」と刻まれた刻銘石

 更に進むと稲葉一族の墓所が見えてきますが、その手前には樹木を表す刻名石が左右に置かれています。こちらは「瓔珞桜」と刻まれ枝垂桜を意味します。

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「昆弟槇」と刻まれた刻銘石

 こちらの石には「昆弟槇」と刻まれています。かつてこの地に2本の幹を持った槇があった事を記しています。どちらも丸っこい文字で開山の鉄牛の筆と考えられています。

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御霊屋の跡

 更に進むと御玉屋の跡に辿り着きます。稲葉一族の位牌と開基稲葉正則の座像があったと伝わります。

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稲葉一族の墓所

 稲葉一族の墓所には五輪塔6基、角柱石塔婆1基、計7基の墓が並びますが、左より以下の配置になります。

稲葉美濃守正則の墓(角柱石塔婆)
稲葉丹後守正勝の正室『長興院』の供養塔
稲葉丹後守正勝『養源寺殿』の供養塔
春日局『麟祥院』の供養塔
稲葉美濃守正則の正室『正岩院』の墓
稲葉美丹後守正通の後妻『竜智院』の墓
稲葉美濃守正則の長兄『梅嶺宗春』の墓

 少し離れて東側の独立した墓は正勝の家臣塚田杢助正家の墓です。この人は正勝の一周忌に切腹、つまり殉死をした方で、元々は山角町にあった紹太寺からこの地に移されたと考えられています。

 稲葉一族の墓所は平成26年7月23日倒木によって倒壊してしまいましたが、平成29年9月に地元ボランティアの協力と指定文化財修繕事業として小田原市も介入し復旧しました。

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裏大門への道

 稲葉一族墓所から枝垂桜へと足を進めましょう。その途中現在は何も残されていませんが、大方丈(本殿)と書院があったとされる畑地を抜けると裏大門へ通ずる道が現れます。参拝する際に登った石段を男坂、こちらは女坂と呼ばれ石段はありません。建設のための用材や物資の運び入れが行われた道のようです。

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「百花叢」と刻まれた刻銘石

 更に進むと左手の茂みに「百花叢」と刻まれている石が現れます。ここでは花が植えられた事を意味するのではないかと考えられています。

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「溯涸岩」と刻まれた刻銘石

 更に続いて「溯涸岩」と刻まれた石が現れます。沢水を遡ってきたと言われる岩という意味を持つそうです。

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「石牛路」と刻まれた標石

 更に続いて「石牛路」と刻まれた石が現れますが、ここから枝分かれして登る山道が「石牛路」と呼ばれており、その山の途中に牛が伏せた様子に似た巨石「牛臥石」が見られます。長年の自然災害などで道自体失われている場所などがありますので、ハイキング向けの服装でないと登れません。体力に余力のある方は挑戦してみましょう。

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「牛臥石」

 少々きつい山登りを終えると「牛臥石」が現れます。大きさは幅が4m30㎝、高さが1m66cmにも及ぶ巨石です。牛が寝ているように見えるので名づけられました。また、長興山以前のこの付近の呼び名は「牛伏せ山」であったと言われます。開山の鉄牛が偶然にも自身の名と一致する符号に喜んだのではないかと思われます。また、『長興山の牛臥石に題す』という七言詩を作っています。

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「牛臥石」の銘文

 「牛臥石」の丁度牛の横っ腹も当たる部分に鉄牛が銘文があります。意味は「土の精が化して山霊となり牛の姿として現れたこと、さらに八絋(全世界)を呑む牛の気合をたたえる」といった内容だそうです。

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鉄牛の寿塔

 さて、「牛臥石」を見学された方は短いながら大変な山登りとなってしまいましたが、「石牛路」の石標を進み石牛沢(男沢)を渡って鉄牛の寿塔を見学しましょう。この寿塔は鉄牛の生前貞享4年(1687)に鉄牛の還暦を祝って二世超宗が建てたものです。関東大震災の際にこの寿塔が倒れ、中から青銅の二重の筒が出てきたことがありました。内側の筒には60歳の鉄牛の髪と爪が納められ、外側の筒には鉄牛が亡くなった元禄13年(1700)後に書かれた鉄牛の一生に関る文章が書かれていたとの事です。

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「青蛇」と刻まれた刻銘石

 鉄牛の寿塔の先の宮沢川周辺には刻銘石がたくさんありますので見学しましょう。宮沢川とは先ほどの石牛沢(男沢)と花の木沢(女沢)が合流した川の事です。刻銘石は場所によって非常に危険な場所に置かれていますのでくれぐれも無理はなさらないようお願いします。

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「白象」と刻まれた刻銘石

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「藤岡渓」と刻まれた刻銘石

 寿塔から進むと更に沢を渡りますが、沢の直ぐ上流の石に『藤岡渓』の刻銘が見られます。沢を渡った対岸は一吸亭の跡になります。

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一吸亭跡

 一吸亭とは天和3(1683)年、2世超宗が宇治から帰った鉄牛を慰めるために造った庵のことです。二丈四方の建物を造ったのが最初で竹を編んで壁とし、草を敷いて坐るといった風雅なにわか作りの建物だったそうですが、後に改修されています。眺望に優れており、『清浄観』に劣らないものだったと超宗の書いた『一吸亭記』に記されているとの事です。

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枝垂れ桜『長興山紹太寺遺跡をたずねて』の表紙より

 長興山紹太寺の開山時、寛文9(1669)年に稲葉氏が植えた樹齢350年以上と言われる枝垂れ桜です。当時の呼び名は「瓔珞桜」で、当初は御霊屋の前に植えられていました。種別はエドヒガンの変種とのことで、春には花を咲かせ小田原市の観光地の一つとして賑わいを見せます。

 帰りは枝垂れ桜の横の農道を降りて帰り道とします。その先の裏大門の道が現れる付近に裏大門があったそうですが、そこまでが紹太寺の境内とのことです。現在その途中も含めて私有地ですので立ち入りは禁じられています。

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山神社

 裏大門を過ぎると荻窪用水が現れます。荻窪用水については別の機会で紹介したいと思います。麓には入生田の鎮守山神神社があります。入生田では古くから石材の切り出し、林業など山に依存する職業の人が多かった事が解ります。古い石の祠がいくつかありますので合わせて見学してみましょう。

アクセス:箱根登山鉄道入生田駅から徒歩約15分(伽藍跡まで)
主要参考文献:下重清『小田原市史 通史近世』 田代道彌、山口隆『長興山紹太寺遺跡をたずねて』

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