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とある阿呆の大冒険

 オダニというオトコは、1990年12月17日京都府与謝郡加悦町に生誕。現与謝野町である。町が3つ合併して、まだ町だ。観光業や漁業に強みのある宮津市と伊根町には見限られ、ともに歩を進められない与謝野町。24,000人いた町民は、今や20,000人を切る。そんな愛くるしい故郷。

 父君と母君の直感で「なんかコイツの小生意気な顔には“ゆう”という音が合いそうと違うか」と何とも薄っぺらい理由により、「祐介」と名を受ける。その名の由来に恥じぬ幼少期を過ごし、体も心もペラペラにすくすくと育ったのである。
 幼きオダニは、ウルトラマンのスマートさに羨望の眼差しを向け続け、「将来はウルトラマンになり、そしてメタリウム光線を打ち放ち、怪獣や超獣たちから世界を救うに違いない」と信じてやまなかったが、母君の「そんなヒョロヒョロではウルトラマンになんかなれへんで」との力強い言葉に夢打ち破れ、バスケットボールとサッカーに精を出し、バット職人を目指すことになるのであった。なお、バット職人への道は3か月程で潰えたが、それは別の話であり、また語るつもりもない。

 そんなこんなで、ウェールズへの熱狂的な越境を経験しながら、今は亡き京都府立加悦谷高等学校を寝ながら卒業し、魔境三重大学人文学部へ入学。1割しか男性がいない学部にもめげず、「我こそはオダニなり」と存在を誇示し、鼻で笑われる日々を過ごした。そんな自分の有様を鼻で笑うのであった。“第一食堂に住まう妖怪”と呼ばれるになったことは言うまでもない。そうなるまでにさほどの時間もかからなかったという。在学した4年中3.8年分を酒とともに御都合主義的トンチンカン話に花を咲かせることに費やし、残りの0.2年分は寝ていた。
 そんなオダニも社会の厳しい波には抗えず、就職活動という大海に泥でしかない船で漕ぎ出すことになる。溢れ返る会社情報と意志ある一部若者の熱意によって、オダニの泥船は見る間もなく沈み、こぽこぽと溺れる始末。そんな中、「不動産業界を変えてやる」と息巻くハウスドゥという会社にここぞとばかりに掴みかかり、なんやかんやで無事御縁を得る。
ハウスドゥへの入社において、故郷京都採用を受けていたばかりに、京都ないしは関西という地で機敏に活躍するであろうと、イメエジトレイニングに励んだオダニ。辞令と名打つ書面に記された「貴君を上尾桶川支社への配属を命ず」という言葉に「はて?」と首を傾げ転げた。奈良か和歌山の知らぬ土地かな?否、埼玉県であった。
始まってしまった関東暮らし。関西で暮らしたかった。京都が好きだった。悔しかった。何故、埼玉なのか、と。始まった。関東での暮らしは、それはそれはもう便利できらっきらしており素晴らしく、あっさり関東に染まりこんだオダニ。丹後弁を封印し、上尾桶川支社の営業職として獅子奮迅のポスティング業務を展開。練馬支社の新規立上げメンバアの任を命ぜられると、100名を超える優秀でしかないメンバアをマネジメントしつつされつつ支店広報を一手に受ける大役を担い、練馬支社躍進に寄り添う1年を過ごしたのだった。が、未熟であったオダニは、大変に疲労困憊してしまい、1年でハウスドゥを去ることとなった。
 
 ここからがオダニの人生本番である。ここまで読んだ者は、100人いれば3人しかおらず、その3名は漏れなく知的であり大変ヘンテコな人であろう。
 
 株式会社ハウスドゥを去った後、株式会社インターエデュ・ドットコムという何ともハイカラな名前の会社になんやかんやで御縁を頂くこととなる。何やら、私立中高一貫の広報支援や中学受験に関わる情報を世に配信している会社だそうな。中学受験はおろか、私立の学校にも通ったこともなく、また家系がセンセイばかりでありその呪縛から逃げ続けてきたオダニにとっては、一世一代の大勝負であったのかもしれない。何であれば、「おいこら勉強せい」という旧来型学校教育の風潮と偏差値至上主義的な価値観、傍若無人な大人の立ち振る舞いに、学校生活此れ楽しいと思ったことが塵ほどもなかった。しかし、入ってみればどうだろう。このお仕事が面白いのである。私立中学校というものは、本来なくてもいいものなのだ。各々、生き残りと生徒の学びのために、「我こそはオモチロ学校なり」と様々なアレヤコレヤを提供している。こんな学びが受けられたら、ワシかて勉学にもっと勤しんだのではと、誰もが思うようなペラペラな感想をボソリと吐き捨てたものだ。オダニはそうした私立中高一貫校の広報宣伝活動や入試設計アドバイス、学校運営相談役として名を馳せた。名を馳せたということにしている。時には理事長や校長といったお偉いオジサマたちに説教くれたこともあった。ペラペラだったオダニに、「もっとこうした学びの場を良いものにし、それを世に知らしめるべきだ」というちっぽけな使命感で溢れ返っていた。酒と生きる道を分かつことを決意したのもこうしたとき。革命である。オダニ史上最大の革命。
 しかし、センセイは大変だ。広報もヘタッピだ。目の奥が灰のようになっているセンセイも多くいた。愚痴ばかりこぼすセンセイもいた。若者は身近なセンセイや大人の背中を見ている。こんな姿を見た若者が「アッシも早く大人になって社会の渦の中で挑戦したいでやんす!」と息巻くであろうか。ならないであろう。大人になりたくない。大変そう。こりゃいかん、オダニが変えていかねば。オモチロオカシク「エイヤー」と挑戦し、楽しむことを、大人がしていかなければいけない。生徒の姿からももっと学んでいく姿勢を持たねばならない。自分たちが正義ではなく、視野を広げ日々変わっていくことを当たり前にしていかねば、と。
 ならば、学校の外からではなく、中から変革をもたらす挑戦をしてみたいと沸々ブクブクと湧き上がる何か。学校法人敬心学園・日本児童教育専門学校がそうした力を求めてくれた。「2年半で生徒募集の大きな上振れと改革をしていく土壌の形成」を成し遂げることを高らかに宣言し入職。センセイ・現場職員・学生のみならず、持ち前のふにゃふにゃ感を駆使し、法人職員・グループ校職員・新宿区・保育企業・YouTuber・インフルエンサー・地元新聞社・各Webメディア・ご近所の専門学校との繋がりを創出。入試設計もセンセイの働き方もぐわんとひっくり返して見せた。高田馬場夏祭りを主催し、ちっぽけな専門学校がYahoo!ニュースに掲載されたことはハイライトシーンであろう。学校公式SNSでもふざけることを惜しまなかった。唯一、Tiktokという未知の怪物からは逃げて逃げて逃げて去ったオダニ。後任の21歳元アイドルの女性職員が早々に大バズさせ、悔しくて涙をのんだが、更なる成長と挑戦をしてくれていることに、安堵の気持ちで日本児童教育専門学校を去るのだった。現在も日本児童教育専門学校は保育業界のリーダー校に、アジアのハブ校になるべく日々メキメキと貪欲に暗躍中だ。
 
 いよいよ、いち学校という閉ざされた世界を開き、オモチロ学校を創出することを経験したオダニは、安定が約束された将来ポストを投げ捨て、いや、後輩に譲り渡した。そうして、二ホンの学びの枠組みを変えていくようなことに暗躍したい、そう念じ始めていた。Wantedlyに通知だ。地域・教育魅力化プラットフォーム。ご縁があれば、東京でパートナー的にかかわることから始めよう、そう思っていた。気がついたら、オダニは松江にいた。雲南市に家を買っていた。去り行く金。オダニ史上最大の2番目の財政難が訪れた。しかし、心は晴れやかだった。なにせ、二ホンの教育を変えることができるのだ。そして、故郷のような廃れゆく地域を奮い立たせ、かかわる大人もともに成長できるお仕事なのだ。インターエデュでの都市部私立中高一貫校との接点は、今後のプラットフォーム大躍進にきっと活きるに違いない。日本児童教育専門学校での立ち振る舞いは、どこかコーディネーターという動きに似ていたように見える。オダニは「はて、何ができるかわからんが、楽しむほかなかろう」と、ヌルっと地域・教育魅力化プラットフォームの業務に入り込むのであった。
 
 オダニというやつはヘンテコだ。ヘンテコだがオモチロイ。何ができるというわけでもない。しかし、なんだかヤツのむわっとした存在は必要だ。そう思われるよう、鍛錬を積むらしい。

【参考文献】
森見登美彦(2005)『四畳半神話大系』太田出版
森見登美彦(2006)『夜は短し歩けよ乙女』角川書店
小谷祐介(2022)『履歴書』小谷のパソコン
小谷祐介(2022)『職務経歴書』小谷のパソコン

【オダニの持つ資格】
普通自動車第一種運転免許・小型車両系建設機械運転免許・生涯学習コーディネーター・キャンプインストラクター・サウナスパ健康アドバイザー・メンタルヘルスマネジメントⅡ種・キッズコーチ検定3級・英検準2級

【オダニのSNS】
Twitter:@odani_edu


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