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優しいってなんだ。

優しいってなんなんだ。

友達に本気のアドバイス、いわゆる厳しいアドバイスをしてもらって、心が軽くなると同時に身が引き締まる思いがした。そのアドバイスというのは友達いわく、

命懸けで言った
関係が壊れるのが怖かったけど言った

ことらしかった。
「関係が壊れるのが怖かった」というのは言葉のあやで、言葉通りそう思っているのではなく、本気のアドバイスに立った角を少しでも落とそうとして言ったようだ。

少なくとも私は本気のアドバイスをくれたのが嬉しかった。誰にも分かってもらえないと思っていた心の奥底にある不安が、確かな不安だと認識できたからだ。

私がずっとずっと感じていた不安。
それは、平和ボケしている自分をあたかも真の「平和」の中にいる自分だと勘違いさせているものだ。今の生ぬるさの中にあるひんやりとしたものだ。
生ぬるさは温かさと冷たさからくるもので二つが合わさると、「生ぬるく」なって、温かさと冷たさどちらも外には見えにくくなるが、前者(温かさ)はここでいう耳聞こえの良いことで外に出たところで誰も傷つけない。けれど後者(冷たさ)はここでいうと耳聞こえの悪いことだからできればそれは外に出したくない。基本的に自分の中だけでとどめていたい。

言っても伝わらないもの、飲み込むしかないものだと思っていたこの生ぬるさの中の冷たさに対する不安を、どうせこれは私にしか分からないと思い込んで、これまで誰にも言わなかったけど、さっき友達に本気のアドバイスをされて、人に分かってもらえないと思っていた自分の冷たさに今も体を冷やされていることこそに初めて共感してもらえたような気がした。

誰にも言えない冷たさ

命懸けでしてくれたアドバイスを思い出しながら、
私は人に対してそんなものをしたことがあるだろうかとも思う。
これまでずっと同調しかしてこなかったではないか。

SNSが流行って、私生活を直接の会話がなくとも、写真などを通して共有できるようになった。
そんな中、

あの子は幸せだろう
あの子は何不自由ない生活を送っているだろう

という言葉に痛める人はおそらくゼロではないと思う。
他人からの賞賛に対して、「本当はみんなが思っているほどの人間ではないのに」という気持ち。
承認欲求を満たす理由が他人のアップする写真を見て「幸せそうだなあ良いなあ自分もしよう」と羨望の眼差しを向けることが先にあるならば、目の前の人間が本当に幸せかどうかなんて考えることもしていない気がする。
「幸せそうな人は本当に幸せな人間なのだ」という認識の中でみな同調しあっている。

私も人に同調ばかりしている。「否定しない」という建前で。
私は冷たい。
冷たいものに触れているから冷たい。でもこの冷たさを持っているということを誰かにわかってもらいたいわけじゃない。冷たさを公にするということは、自分が無力であるという理由だけで他人に責任を押し付けているように見えるからだ。私はこういう人間なんだだからしょうがないんだ、と。進展しそうもない「しょうがない」を生み、さらには他人に責任を押し付けているように見えるくらいなら、自分のことを分かってもらおうとすることは私にとっては必要がない。これを言うことで自分はこういう人間なのだと割り切っているようでそれも心底気持ちが悪い。

けれど実際自分自身が冷たくなっているのを感じた時、私は負けたのだとも静かに思う。
自分の持つ温度でその冷たささえも無くせない人間なのだと思う。自分はもう心から冷え切っているのだと思う。

友達が命懸けで言ってくれたアドバイスが頭から離れない。
相手に対して命懸けで言ったことなど私にはあるだろうか。
私は「否定しない」という人間をやることで、みんなの相談役的位置にいるけど、そうやって他人に当たり障りなく同調しているということは、私は他人の温度に負けていることではないか。
私の優しさだと思っていたものは、温かさではなくて、何の温度上昇も加えない「放置」という冷たさではないか。

優しさってなんなんだ。

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