雑談 12
私が note で「雑談」のシリーズ?を始まる前に「日記」というシリーズ?があって、「雑談」はそこからの派生である。
今回は一個はじめに「こういう内容を書き出しにしよう」的なことは考えていて、その話をするにはまずこの「日記」シリーズに触れなければならないのだが、今回を含めてやっと12回目となるこの「雑談」シリーズで「日記」シリーズに5回くらい触れている気がして、さすがに多くて嫌になるな。
〈物語〉シリーズ ← これは西尾維新
で、まあ「日記」シリーズのうちの一つに、中学生の頃のエピソードで始まり、途中で「実はこれは嘘である」と明かすやつがある。これを「雑談」シリーズで再びやろうと思って数日前に嘘松を考えていたのだが、嘘松を考えることに気を取られて雪のせいでありえない転び方をしてしまった。
ちなみに考えてた嘘松は、「自分は〇大界隈の有名人で、この大学に通ってる大学生なら知らない人はいないほどの有名人なんだ」みたいなことを言ってる奴がいて、なんかしょうもねーなと思ったみたいな、そんな感じだったと思う。細かいところ考えてないフワフワの状態なので説明しろと言われても難しいですね。
あと没系でいうともう一つあって、この季節の私が住んでいるところの周辺は結構雪が積もり、そのせいで車道が一車線減っているような道もあるのだが、そういうところの写真をあげて「車道が減る現象だよ クーネル・エンゲイザー」とツイートする予定があった。が、実際に写真を撮ろうと思うと道が減ってる感が写真から伝わらなくて難しいね~となった。近所で撮った写真インターネットに出したくないし。
さて、最近どうですか皆さん。寂しいですか。私は寂しいです。
寂しさだー
寂しさに染まったこの俺を
俺を←オレオじゃんwお菓子じゃんw
おもんなさすぎる……。
直接的に寂しいという感じはしないけれど、たぶん寂しいんだろうなという感じはするね。かなり。心の底から信用できる人、というか、信用するとか信用しないとかそういうことをわざわざ意識することもないほどの仲が良い友人が、高校生の頃まではいて、だから寂しくなかったんだけど、今はそういう感じではないからね。一人暮らしだし。
家族に関してはどうなんだろうな。親子仲は決して悪くないし別に親のことが嫌いとかではないけど(←思春期?)中学生くらいからずっと一人暮らししたい!とは強く思ってたからな。そりゃあまあ親と一緒の家に住んでいたから寂しくなかったという側面は強くあったと思うが、同時に自立したいという強い思いやストレスもあったように思う。いやまあ、今でも親からお金を毎月一定額頂いているので、まったく自立はできていませんが……。
こういう時に親からお金を貰っていることに対して必要以上に負い目を感じない人間でありたいねと、思うね。これはそれこそ「日記」シリーズでも触れた話ではあるが。親のお金で風俗に行ったっていいんですよ。
最近 Twitter 見てると世の中の全ての男オタクが風俗に行っているように見えるけど、絶対にそんな訳ないんだよな。風俗に行ってない人は風俗に行ってないと言わないけれど風俗に行った人は風俗レポをあげるので、典型的なバイアスの一つですね。
ダ・ヴィンチ・恐山「頻出バイアス100選」
絶対に今さら言うことじゃないけど、「頻出ツイート100選」をわざわざ大々的に言うことって本質じゃなさすぎるよな。同じツイートが二度バズらない SNS を考えると、あまりにも不健全すぎるし、同じ話題が何度もバズるのはインターネットの流れが良い証拠ですよ。これも昔ツイートで言った気がするな。
思えば私がいなくなる直前の Truth Social はにゃるらと恐山の話しかされていなかった。 「Truth Social 面白すぎる TRUTH TRUTH」みたいなノリが7月の4日くらいまであって、この頃からトゥル子という概念が出てきてみんなその話をしだして、8日くらいからは Truth Social 独自の文化を作るのにも飽きて、(これは正しくなく、コンテンツを作る力のある人間が見切りをつけて既にいなくなっていた)残った近い感性の人間が適当に選んだ共通の敵を適当に叩いていた気がする。
今思い返そうとしているが、半年以上も経って私の記憶が曖昧で覚えてないことも多いが、恐山に関してはそこまで悪く言われてなかったかもな。ただ「どうせばれないそうにしているだけでいるんだろ?恐山」みたいに言われていた記憶はある。これは私の直感だが恐山も7/8くらいで見切りをつけていなくなってそうな気がするんだよな。単純にユーモアを求めているのではなく人間観察的な意味合いもあったと思うので一番最初の面白い人たちがいなくなるフェーズではまだ残っていた気がする。
そういえば Truth Social の雰囲気を作っていってった人たちって恐山よりも5~10年くらい年下の集団だったよね。いやまあ、だからどうとかはないんですが。大学生しかいなくなかった?
しかし Truth Social なんてものは大エコーチェンバー SNS で、一回自分がフォローした人に近い人の TRUTH しか見えないので、私から見たらそう見えていただけかもしれない。
楽しかったなあ。Truth Social.
君はどんな顔だっけ なぜだろう、思い出せないな
Truth Social の楽しかった一週間を経験して以降、サマータイムレコードを聴くと Truth Social のこと思い出しちゃうんですよね。あれも夏の話だった。
去年の7月中旬~8月くらいは Truth Social はもう面白くないと私も見切りをつけてアカウントを消したけど、しばらくは未練がかなり残っていたな。あの露悪的で黄金のインターネットを過去のものだと思いたくなかった。
最近になってようやく決別できて、昔話のテンションで語れるようになった。いつか孫ができたら Truth Social の話をうんとしてやりたいですね。なんで未来の私が結婚出来て子供がいる前提で話してるんですか?
前に Truth Social の話をしたときも言ったけど、こんなテンションで Truth Social の思い出話をしている人って多分私しかいないんだよな。あの頃の Truth Social にいた人が今 Truth Social を思い出したとき自分の思い出の中でどれくらい輝いているかの度合いは人によって大きく異なると思うが、その輝き具合では私はかなり上位に行ける自信がある。
カラオケ行きて~。カラオケでサマータイムレコード歌いてえ~。
いや、恥ずかしいことですよ、こんな風に Truth Social のことを語っているのは。こうやって過去の思い出話を一人で勝手にして懐かしがるのって Truth Social の雰囲気とは真逆に近いものなんだから。いや、本当にね。
俺ってこの先どこに向かうんですかね。もし今後誰かと現実世界で出会って、いろいろ話しているうちに二人ともあの頃の Truth Social にいたということが分かったら、ロマンチックですよね。ロマンチックか?
もしそんなことがあれば「Truth Social で『陰茎』『陰核』を『茎』『核』と最初に略したのは私だ」と自慢させてもらおう。こんなに世の中のほとんどの人に威張れないのに、しかし自分の中で誇り高く思っている自慢はない。誇り高く思うなという話ではあるが。
深夜、寝ようと思っても寝付けない状態でする昔話ほど気持ちいいものはないな。完全シラフなんだけど酒飲んでる気がしてきた。
このままご機嫌な状態が、永遠に続いてくれればいいのに。
本当にねえ~。
感情が変化するのって嫌すぎる。身体の中で働いているケミカルなシステムが、ずっと幸せでいる権利すら奪い去っていく。
ポエム生まれちゃった。おぎゃあ。
もうすぐ3時だし、感傷的にもなるんだよな。
そういえば最近気づいたこととして、自分は本来全然論理的な人間じゃないということがある。後天的に論理的な思考を身に着け、論理的な性格で振る舞う術を身に着け、自分が論理的な人間であると錯覚できる程度には技術が発達したわけだが、根っこの部分が感情的というか、感傷的な人間だと思う。
本当のことを言うと自分のことをそこまで感情的な人間だとも思っていないのだが、しかし過去の自分が思っていたほど論理的な人間じゃないよねと気づくことで、論理的であることの呪縛から少しだけ解放される感覚があるんだよな。論理的であることが呪縛になっている時点で論理的な人間ではないのだが。
「論理的な人間」というものを定義せずにこの話をしてしまっていますね。ぶっちゃけ私もかなり雰囲気でしゃべっているので、「論理的な人間」がどういう人間像を指すのか分かっていません。ただ、どうやら俺のことではないらしい。とすると、あなたのことかもね。
「とすると、あなたのことかもね。」?
「とすると、あなたのことかもね。」????
雰囲気で喋れば良いってもんじゃないですよ。
は~い。
ちんぽ
ちんぽか~
まんこ
まんこか~
ちんぽはあるのにまんぽはないのはおかしい
ちんちんはあるのにまんまんはないのはおかしい
いや、まんぽもまんまんも、文脈次第では伝わるけど、一般的じゃないっすよね。
「万歩計」って言葉が許されているの、あまり納得していない。
ちんぽ計(何往復したか記録してくれる)
こんな話をした後でこんなことを言って、信じてくれるかは分かりませんが、美しくなりたいです。身も心も魂も。
清らかな心で、過大な怖れもなく、人々を救っていける人間に、なりたいなあ。
今日はこれで終わります。
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