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もうだめだ、と思った夜の1万8千円のイヤホンと2500円のアダプタの話。

この声でえぐられたから、もうだめだ。

ひとが笑う。ゆれる。息を吸う意思に満ちた音とさっき吸ったその息を同じく意思を持って吐く音かすかな音が確かに聴こえて、誰かの長袖ボーダーの袖が擦れ合う音がおぼろげに聴こえて空気が震えて、定員100名の空間が膨らむ瞬間をみた。

YouTubeの画面越しではあったけれど、確かにみた(もしかしたら長袖ボーダーでさえ、なかったかもしれない)。

中村佳穂さんを知ったのは全くの偶然で、お気に入りのアーティストがインスタのストーリーでつぶやいたその名前が気になって検索したに過ぎないのだけど、検索結果の動画に魂を打ち抜かれた。見事だった。

三軒茶屋のこの夜に、なぜ私はこの場にいなかったのか。

子どもが熱を出して好きなアーティストの引退ライブに行けなくても、ドラマ最終回の夜に寝落ちしても、日本代表のシュートの瞬間にトイレに立ってしまっていても「まぁいいか」と流してきた私が、人生初、「見逃した感」で身もだえた。

2年も前に終わった三茶のその夜に追いつくにはどうすれば。

一生懸命考えた。画面越しにしか行けないその世界に1mmでも近づくには。時間は戻らない。なら、今この瞬間にも流れゆく時間の濃度を上げる何かを。そんなもんあれや、大人やからお金かけるしかないやろ(関西人)。

「イヤホン 音質」(検索)

イヤホン2万6千円。アマゾンで8千円引き。ほんまかいな。しかしどうやら木の振動がいいらしい。人間工学に基づいた設計で耳への装着感もいいらしい。よくわからないけど私は大人だ。1万8千円ぐらいなんとかする。おとなだから、酔っぱらって購入ボタンをタップすることもあるのだ。

1万8千円のイヤホンは翌日届いた。アマゾンすごい。

ただ残念なことに、アマゾンは私がiPhoneユーザーと見抜いていなかった。

「iPhone  イヤホン アダプタ」(検索)

2500円。翌日届いた。アマゾンはすごい。

コロナ休校で時間の感覚の狂った子どもたちが寝静まるのは深夜0時過ぎ。ウッドのイヤホンを変換アダプタにつなぎ、iPhoneにつなぐ。YouTubeアプリを起動する。YouTube私の好みを知悉してるつもりかよ色々おすすめしてくんなよ。研磨機に向かう旋盤職人のように細心の注意を払う。このイヤホンが私の鼓膜を打ち鳴らす一曲目は、中村佳穂の、あのライブでないといけない。この三茶のライブでないといけない。

みんなおんなじつらいのよ

そうやってあの子は慰めますが

私の気持ちがみえるのかい

それならどうして、どうして。

ほんの一瞬、ぐわっ、とあふれたから吸った息のせいで僅かにピッチが狂う瞬間に私はうわっ、ってなった。やっぱりもうだめだ。私の心は静かに機能停止した。

みんなおんなじつらいのよ、そうやってあの子もお母さんもなぐさめるけど、わたしの心はみんなとおんなじじゃなかった。どうして、どうして。

あの日あの時あの場にいた人たち、中村佳穂と同じ空気を吸って一緒に歌った人たち、事前に歌詞カードを配られて中村佳穂と一緒に歌ったあなたたち。あなたたちには到底かなわないけど、1万8000円のイヤホンと2500円のアダプタをもってわたしは、胸の中にあふれる得体のしれない何かを、知らない誰かとほんの少し共有してしまったかもしれない。

した気になっただけで、共有なんてしてないかもしれない。でも私はもうたぶん今日も、聴く。あなたの声を、あなたたちの声を。その空間にあふれた声を。ずっと誰とも分かち合えなかった気持ちを。どうして。どうして。

「ああ最高、満身創痍」ライブ映像は中村佳穂のその一言で終わる。

コロナが何とかなったら、ライブ行きたいなライブ。最初に足を運ぶライブは中村佳穂がいい。

もしそれが叶わなくても、ひとが愛や願いや汗や唾や欲を飛ばし合って歌を紡ぐ世界が、どうか早く戻ってきますようにと祈る。

歌があふれる空間は、「あの子」にわかってもらえない誰かを救うから。

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