見出し画像

私はタツローでレトリィバァで、ちょっとオードリー・タン

 ことしのゴールデンウィークは、入社5年目にして初めて4連休を獲得した。色々とやりたいことはあったが、カレンダー上の休日と自分自身の休日がこんなにも長く重なるのは珍しいので、4日間のほとんどを彼氏と過ごすと決めた。遠出はできないにしても、近場でゆっくり過ごせばきっと充実した休暇になるだろう。そう考えていた。

 連休の中日に、服が欲しいと言う彼に連れ添って、地域内ではもっとも広いショッピングモールへ出かけた。ところが彼は自身の買うべき紳士服よりも婦人服に興味を示し、私の体に当てては「似合う」「似合わない」を繰り返していた。似合わない服のほうが多かった。「イメチェンは難しいなあ」と独りごちる彼に呆れた私は、この不毛なファッションショーを中断すべく雑貨屋に入った。

 ひととおり店内を巡回して、最後の棚に差し掛かったとき、彼は「おかめ」の描かれた皿を手に取り「おちもりちゃんがいる~」と冗談めかして言った。違うでしょと小さく返したものの、女性の容姿に対する侮蔑語として用いられる機会の多い「おかめ」が、親しみをこめて人をからかうための言葉とは思えなかった。

 その後もなぜか、私に対する具体的な容姿批評が続いた。ある日書店でオードリー・タンに関する書籍を見かけて、またテレビ番組にゆりやんレトリィバァが出演しているのを見て、私によく似ているとしみじみ思った、と言うのである。

 両氏とも他の人にないマルチな才能を持ち、それぞれの分野で時代の最先端を進み続ける、まぎれもないスターであるが、顔のつくりだけをして「似ている」と言われると、特別な一芸に秀でない私は複雑な気持ちになる。恋人から発せられるこれらの話の意図するところが分からず混乱した私は、Google画像検索で見せられたオードリー・タンのポーズを咄嗟に真似してお茶を濁した。彼はそれを楽しそうに眺めていた。

 オードリー・タン、ゆりやんレトリィバァ、そして「おかめ」。案外心に深手を負ったと気づいたのは、言われてから2日ほど経ってからであった。

 率直に言って、私はあまり容貌に恵まれていない。昔は「山下達郎に似ている」と言われた。顎がしゃくれていたり丸顔だったりと、難を挙げればきりがないが、なによりもまず目が小さくて、まぶたが一重だ。一重というだけで、他のパーツの具合がどうあれ世間からはブスとみなされる。一重から二重への整形や細工は、例えるならばニキビの治療と同じくらい自然な感覚で行われる。この疾病にも似た弱点を人生の早いうちから自覚していたので、異性から見向きされなくとも生きていけるようにしなくてはならない、と常に考えて生きてきた。一方で「(ありのままの)自分をブスだと思いたくない」という、端から見ればどうしようもない反骨心のようなものも併せ持ってきた。

 一度は「ひとりで生きていく」と決めたものの、今年で30を迎えるにあたり、私の意志は揺らいでいる。けれども私のような者が結婚を望むなら、隣にいる異性に一生弱点をつつかれ続ける覚悟が必要である。自身の容姿をわきまえてやっていこう、改めてそう思わされる出来事であった。


 とはいったものの、彼には一矢報いてやりたい。美形以外の有名人に似ていると言われることが、いかにあなたの心をざわつかせるか思い知らせてやる。執念にかられて、私は近所の蔦屋書店へと赴いた。

 芸能人エッセイ本コーナーを何周もして、ついに彼に似ている有名人が判明した。西野亮廣である。

(↑この写真には似ているが、他の写真にはそんなに似ていない)

 いわゆる「プペル現象」を冷笑するインターネット民はさておき、西野に似ていると言われて嫌な気持ちになる男性なんているだろうか。西野がオンラインサロンなら、こっちはオチンチンサロンで一山当ててやる。ちくしょう、覚えてろよ!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?