プレジデントの故・稲盛和夫氏の記事を読んで

ちょっと時間が経ってしまったが、先日亡くなられた稲森和夫氏の記事がプレジデントにて掲載されていたので噛みしめるように読んでいた。

前提として稲盛氏の経営哲学や功績については尊敬していて、私自身も学ぶことが大変多いと思っているんだけれども

同様に学んでいる人に、何というか品がないことが当時から非常に気になっていた。

それをまとめたものが京セラフィロソフィーであり、それを実現する為に盛和塾なるもので同志が集まり、語り合っていた会合があるのだが

誤解を恐れずに言うと新興宗教と大差ないレベルなのである。

教えに異論は認めない、教えに対してどれだけ真剣に向き合ったか塾生同士で発表しあい、フィードバックしあい、悦に浸る

いやちょっと待て、フィロソフィーには確かに良いこと書いてあるけど

具体的なアクションまではどちらかというと書いてないぞ?

それをどう咀嚼してアウトプットするのかは本人に委ねられているからこそ価値があるのに、それで正解を求めることに一体何の意味がある?

と毎度思わずにはいられない。

あの哲学のカラクリは稲盛氏の圧倒的な人間性、それも優れた、優れていないではなく人間臭さがバックボーンにあるから輝くものなのに

そこをすっ飛ばして、ああでもないこうでもないと同じ価値観で語り合った所で100%良いものなんて出来るはずがないのである。

しかもフィロソフィーは昭和の時代に作られたもので、令和である現代とはなじみにくい所が多分にある。

例えばコンパ。合コンではなく、飲み会のことをコンパというのだが

令和の時代、そもそも飲み会を快く思わない若手も多いだろう。酒が好きじゃありません、飲み会の場が好きじゃありません…

じゃあそういう人たちに対してどうやって接するのか?と聞いたら

そういう価値観が合わない奴は採用しないか、辞めて貰うと言われた時は絶句した。それ完全に他の信義を受け入れない過激派宗教じゃん…

前置きが長くなったが、稲盛氏そのものの考え方や仕事の取り組み方はやはり記事に書いてあるように素晴らしいものだった。

大きな疑問は一つ、何故これほどまでに素晴らしい実績・経営哲学を残された方が、優秀な後継者を残せず、また多方面からやいのやいの言われる塾の運営をなされたのか、ということ。

人間はやはり万能ではないということか。

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