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白い部屋

姉が東京に引っ越してきた翌日、私は会社帰りに新居にお邪魔した。

実家から手伝いに来た母親は、私が部屋の中に入ったときの第一声を姉と賭けていたらしく、私が「広いね」と言ったら、子供のように喜んでいた。

おそらく母の予想勝ちだろう。

姉の愛犬はもう何年もここにいたかのようにその場に馴染んでいるし、大きなリュックと分厚いアウター、指先が出ている手袋を身についた私だけが部屋の中で浮いていた。

元々、今日は食事をするというざっくりの予定のもと、訪れたのだった。

食事をして、一通り話をしたらいつものように自宅に帰る予定だった。

新居のそばにある居酒屋でしっかりご飯を食べ、眠くなったタイミングで「今日泊まっていけば?」とお誘いがあったのなら、そうするに決まっている。


会計を済ませて店を出ると、駅とは反対の方向に歩いて新居に戻る。

酔っ払った体を冷ますように、おうちに戻って寝転がっていると、「お風呂にでも入りに行こうか」と母が言った。

ギリギリ歩いていける範囲にお風呂屋さんがあるという。


風呂好きの一家は風呂へのこだわりも強い。

姉は特に交代浴を好んでいて、母も実家で鍛え上げられたと得意げな様子。

(熱風呂、水風呂に交互に繰り返し入ることを「交代浴」と呼ぶらしい。)

私は水風呂はめっきりダメで、姉が気持ちよさそうな表情で水風呂に入っている中、私は隣の浴槽に浸かりながら、本当は我慢しているんじゃないかと疑うような目で見つめていた。


脱衣所のドライヤーは3分20円だった。

みんなのお財布には10円玉が一枚も無かったから、ベンチに腰掛けて濡れた髪を強引に拭き取った。

高い天井を眺めながら、とあるラジオで聴いた話を思い出す。

人は物事をすぐ忘れてしまうという話。

私は絶対に忘れないぞ、とどれだけ意気込んでいても、記憶は薄くなっていくものだから、忘れちゃうことを受け入れて日記に残すこと。

そんな話だった。



帰りの自販機で120円のグレープフルーツジュースを買う。

200円を入れたら、お釣りに8枚の10円玉が一枚ずつ音を立てながら落ちてきた。

20円のドライヤーのことを思い出して3人は笑った。

生乾きの髪も冷たい風もどうでもよくなるくらい面白い夜だ。

姉の引っ越し、翌日の話。

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