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ああ見えちゃう、こう見えちゃうは置いといて、頑張ってみたいという話。

長女として育ったからか、
それとも母からの遺伝なのか、
いやいや、そもそも私に備わったオリジナルの性格なのか。
何が原因かは知らないが、
私は、人からどう見られるかがそれはそれは気になって仕方がない。

今まで人を、その人の”振る舞い”とその人が使う”言葉”で判断してきた私は、知らず知らずのうちに、「こう見てほしい」と思う自分を、本来の自分がどうであれ、言葉と振る舞いで作ろうとしてきた。(もちろんそんなに器用じゃないので、完全に作れていたわけではなくて、つくれた気になっていたという感じ)


大学生の、特に後半。3,4年生では、それはそれは、しょうもない悩みを繰り返した。そんな私の姿は、今まで私が一生懸命作ってきた”こう見えてほしい自分”とは、かけ離れた姿だった。

「こう見てほしい」自分を、つくれた気になっていただけだと思っていたが、実はある程度うまくいっていたようで、周りの人は、私を、「いつも元気で、おのれがある感じで、はっきりものを言える人」と思うらしい。無意識にそうふるまっている節はあるので、そう判断するのもわかる。

ただ実は、私はうじうじ悩み続けるし、人の意見にも良く振り回される。子供みたいに、思い通りにいかなければ落ち込む。なにもしなくても好きなことを好きなだけできるんだという妄想をしちゃうこともあるし、たまにうんこの話でバカウケするぐらい下品であほたれだったりもする。

そして、この「他人に植え付けようとした自分像」と「実際の自分」のギャップにそれはそれは絶望した。今も若干している。

そのギャップを感じ始めたのは、ちょうど自分の中でお悩み大戦争が始まった頃なので、1年前ぐらいだろう。

いつものように、「こう見てほしい」という自分はあって、そう見えるようにするけれど、ギャップに気づいちゃってる私は、もう、つくろうことが嫌で嫌で仕方ない。でも、こうしないと息ができない。自分が本当に思っていることをしゃべっているのかもわからない。

そういう状態の自分自身って、誰にもばれたくないし、こんなにしょうもない悩みでグズグズしてるかっこ悪いやつ、いないんじゃないか。こんなこと誰かに言ったら、呆れられるんじゃないか。そう思った。

自分の心の整理と思ってはじめたnoteでさえ、自分をすべて吐き出すのが恥ずかしいし、「またおんなじこと言ってるわこいつ」と思われるのも嫌で嫌で迷走しまくった。何度も開き直りと落ち込みを繰り返した。落ち込みnoteを上げては、なんだかよくわからない宣言noteを上げてみたり。やっぱり自分のイメージをコントロールしようとすることで精一杯になり、当初の目的をさっぱり見失なった状態だった。

その繰り返しに嫌気がさした私は、noteの毎日投稿をやめた。

だけど、noteをやめて、自分の言葉を文章にしなくなると、どうやって書いていたのかも良く思い出せないし、もちろん文章力も変わらず衰退していくばかり。定期的に投稿する友達のnoteに感動し涙しながら「何やってんだ私」なんて思ったり。

毎日投稿をやめてからも、いくつか文章を上げたけれど、自分の感情に関する物はあまりかけなかった。避けたかった。「なんだこいつ。結局また悩んでんじゃん」って思われるかも。なんて思っていたから。

いやでも、
正直、
私は、今でも悩んでいるし、これからも悩むし、面倒な奴だ。

これを、文章の上でだけ、誰かに見られる部分だけ、見栄えを良くして何の意味があるんだろうか。

自分が虚しくなってしまうギャップを、またもや自分で作ってしまうのだろうか。

そもそも、見栄えを良くしようとしたってそんなにたくさんの人が読んでいるわけじゃないんだけどね。私に変な期待をしてる人なんて私ぐらいだ。

長々と書いたけど、
結局何が言いたいかというと、
もう、何を思われちゃうかは、ちょっと置いておいて、自分の感情や考えに正直になって、もう一度発信をしてみたい。というはなしだ。

もちろん、この文読んだら何思うかな。
と、不安にもなるけど。
私にどうこうできることじゃない。

毎回書くたびに、今までの癖で、「こう思われるかも、ああ思われるかも」なんて思うかもしれない。いや、思うだろう。でも、そう簡単に克服できるものでもないだろうから。

こんな面倒な私の文章を読んでくれる人がいるなら、心の底から感謝して、少し前より「どう思うわれるか」より「何を思うか」について書いていきたい。

そして前より、文章力、なんかも気にしていきたい。

できることが増えるといいなあ。

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