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言語の間で揺れるということ

ここ1週間は英語と日本語が入り乱れる生活となっていました。
こうなるとは想定していなかったのでびっくりですが、大学の環境と似ているから落ち着きます。色々目まぐるしく変わっていく今だからこそ、特に一息つける要素です。

頭に最初に浮かんだことを、そのまま口にする話し方が一番心地よい。みんなきっとそう感じることはどこかであると思うのだけど、二言語がシームレスに生活の中で混在する私は特にそう感じる機会が多い。それは逆に、一つの言語にのみ限定される時、私はどうしても言葉を選んだり、考え直したりする焦燥感に駆られる、という意味も含む。特に、気持ちを表現したり、その人の特徴や人間性に強く結びつく日本語のみを使う瞬間が続くと躊躇いが生じやすくなる。

数年前の私が時折口にしていた願望を、思い出す。
「英語も日本語も話せる人と一緒にいれると嬉しいな」
ここ最近は奥底にしまい始めていた願望だったけど、引っ張り出して眺めてみると、そうだね、と想いが刺激される。

一つの言語にのみ限定されると、私の伝えたいこと全てを伝えることは不可能となってしまう。考えや想いを言葉に組み替えた時点で取りこぼされるものの多さなんて果てしないのに、それを無理やり一つの言語、一つの価値観、一つの思想に丸め込めると感覚的な欠如が大きい。

世の中は伝える側に最良配分を重く置きがちなのではないかと考えたりする。伝える側が伝える術を持っていて、例え有効活用したとしても受け取る側の裁量、受け止めきれる器の大きさや深さによって伝わらない瞬間だって無数に存在するのではないかと考えたりする。

…と、まあぐちゃぐちゃ相変わらず考えているのですが。
英語を引き出してもらえる環境にいることが出来て、良かったな、と思う。日本語は本当に綺麗な言語だと思うけど、同時にその言葉の節々にこの国の価値観が根強く現れ、話している内に脳内が侵されていく感触を薄っすらと感じるから。一つの国でこんなにも同じような考え方をする人たちが存在する文化圏って珍しい。それ故、社会に蔓延る価値観を深く侵攻する人が多い現状にふんわり気付くことが出来たりする。

言語の狭間にいるということは、ここの同じ狭間にいる人にしか気付かれない、分かってもらえない事の方が多いけど、それでも真に理解してもらう、という感覚にかなり近い所までいけるので、多少ぐらついてでも、ここに留まり続ける事を選び取りたい。一度ここを完全に脱してしまったら、多分二度とは戻ってこれない気がするから。


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