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雪と果実酒

今回もB面いきます。私の考えのコレクションをゆっくりと貯めてきたので、ひっそりと。


私のベース

最近いつもに増して、読み物をして、自分のことを考えて、他の人に話す機会が多くなって、気付いたことは、私のベースは哀しみから来ている。

哀しみを優しさで包んでもらった時もあれば、そうではなかった時もあって、凪いだ海の底で全部沈んでいる。

でも、愛と哀の響は同じだから、まあそんなに悪くないかなぁ、という感情もある。



尊敬されたい人と安心してもらいたい人

ある人には尊敬されたくて、ある人には安心してもらいたい。

私は1人の人物なのに、別々の人に別々の感情を抱いて欲しくて、人間って本当に多面的なんだな〜って他人事みたいに感じている。

微妙に関係ある所で、ある人は触れ方が本当に優しくて、またある人は言葉の節々から優しさが滲み出て、そのどちらにも私の心が満たされていくの感じるから、私も、その人たちにとって、優しさを感じられるような存在でありますように。



物思いに耽る

相手に気付かれない位の優しさを私は暖かいと感じる。
でも、ふと疑問に思う時もある。
それは、単純に受け取り手である私が深読みをしすぎなのか、それとも相手も私のことを思って、だからこそさらっとやってくれたことなのか。
どちらなのか。
そもそもどちらかなんて私が考えるほどに重要なことなのか。



邦画

アニメ映画ではない邦画をあまり見る機会がない。アニメの方がなんとなく惹かれる、というのが大半の理由なのだけど、実写映画から放たれる波があまりにも大きくて、重い、という理由も少しはある。

日本語は私の知っている言語の中で一番感情・情緒を表す言葉の種類が豊富で、且つ心の隙間に入り込んでくる。

「こんな表現あるんだ」と感動する言い回しや単語がたくさん、たくさんあって、小説でも思うことなのだけど視覚的に文字を見れる事と一旦止まれる強みが映画ではなく、押し寄せてくる情緒の波が、どんどん、どんどんやってきて私は圧倒されてしまう。

今日見た映画でも思ったけど、コンテンツというのは消費しないと恩恵を受ける事ができなくて、でも消費するということはいつか必要性が薄れるということと同義である。けど、その瞬間で私にとってとてつもなく必要だったということ、私が救われたということは違いない事実だから、大切を大切のままで保持するために幕を降ろす。

映画というのは、ほぼ完全に受動的なものだからこそ、制作者の思考の流れを見て、受け取るしかない。阻むものが何もないからこそ、思考に浸ることができる。

邦画は、日本語という特徴を内包するため、その傾向が強いと私は感じる。



最近読んで、心に残った言葉たち

何かに「心奪われている」のが「忙」で、「心にあったものをなくす」のが「忘」だそうだ。


映画の有する「慈悲深さ」を、映画という「仮想現実」で見ることによってこそ、現実は救われるのではないか。



雪と果実酒

他の自然を覆い隠すほど、春まで守ってあげる強さを持つのに、一番跡形もなく消えちゃう弱さという二面性を持つ雪を美しいと思う。

果実酒はロックで飲むのが一番美味しいと思う。
でも別の人はきっと、ソーダ割が一番と美味しいと思うのでしょうね。




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