見出し画像

椿の月も、桜の月も瞬きで過ぎ去っていく

このnote、本当は2月に書き始めていたんですが、気付いたら3月ももう終わり。袴を着て綺麗に着飾っている女子卒業生や、追いコンや卒業パーティでお酒と戦う男子卒業生を横目に見て、「ああ、もう1年経つんだな」と感傷に浸っている。

…と、いうわけで(?)そろそろ最近思ったことを書き溜めておこうかな。

私にとって椿の花は、2月のイメージがある。

雪景色の中の椿も、日差しを浴びて輝く椿も、どちらもしっくりくるから冬から春への橋渡しとしての季節花と、あと昔読んだ精霊の話で2月は、椿の花が短い日数の中で世界の衣替えを導いてくれる概念として描かれていたことが記憶に刻み込まれているから。

尚、
3月は、桜。それか、チューリップ。
4月の前半も桜だけど、中旬以降はネモフィラのイメージが強い。

最近気付いたこと、考えていること

「その一瞬に花開く」

長年、舞台に関わってきた。演劇ではなく、踊る方。それでもスポットライトを浴びて注目を集めるという行為のために、長時間、10000時間以上スタジオの中で積み重ねてきた鍛錬の日々があるからこそ、刷り込まれていく価値観というものはある。

山登りが趣味の子と話していて、考え方の違いがすごく顕著に出た。
彼はいつもちゃんと帰れる分の体力を余分に残しておくことを考えて行動する。対して私は「ここが輝きどころ」と感じた瞬間を後のことを考えて手放すなんて考えは浮かばない。この先がなくても、ここで終わっても、今が輝く時、と思ったら全力投球する。観客はスポットライトが当たっている一瞬にしか興味がなくて、それ以外の、家庭の部分には全く興味を示さない。人間の関心というものはそういう風に残酷にできている。それを知っている。だから、ここと決めた場面で手は抜かない。

そういう考え方で生きている。

知らない人の背中に命預けるって「生命!」って感じ

やっと東南アジアに行く機会がありました。今まであまり興味が湧かなくて、特に訪問していなかったエリア。

バイクタクシーなるものが安くて、便利で、結構使っていたんだけど、知らない人の背中に全てを預けている状態が生命をものすごく身近に感じさせた。

人の命が軽く感じられるから嫌だ、という人もいたけど、命なんて正直そんなものだと思っている。続くときはしぶとく続くし、終わるときはあっけなく、儚く終わってしまう。それに、命を重く感じる、ってなんとなく、生きることを遠くに感じることかと感じる。死ぬ瞬間をほぼ感じない、って生きている実感が湧きにくいんじゃないかなぁ。

なんとなく、海を見ていた時の感覚、海の近くに住んでいた時の感覚とリンクする。生命を与えてくれるものは、それだけ美しくて、恐ろしくもあるものということ。

便利な世の中で昭和の出会い方をしてきた思い出

船のツアーで出会って、仲良くなった人たちと、お店とゆるい時間だけ決めて現地集合しよう、という約束になった。SIMを持っていない人もいたため、連絡手段は特になくて、名前も正直分かっていないからこれで会えなかったら今後会う手段はない。

そんな、昭和の時代のような待ち合わせを企てて、そして見事成功させた。

再開できたときは本当に叫びだしたし、その後はインスタだけ交換して、その内また旅先で会えるといいね、という話をして終わった。

一期一会だなぁ。って思った体験。

白昼夢の中で過ごしていて、ここを気に入るんじゃないかな、
連れてきたいなあ、と思い出した人

最近なんとなく一人で入ることが多い。ぱっと思い浮かんだら行動して見ちゃうことが多かったから。

後でまた書くけど、私の直感は感度が結構高いから、無意識で色々感じ取って、動いていたんだと思う。

そんな中、白昼夢のような空間を訪れて、大切な時間を過ごして、ここに連れてきたら喜んでくれるんじゃないかなぁ、と思い出した顔があった。

そういう思い出し方をする人って、多分私にとって大事な人なんだろうな。

大事な人たちの幸せを願っている。その人の幸せを感じる要素の
一部に私も入っていたら嬉しいな、と思っている。

当たり前のように、未来の予定に私が入っている。そういう話をしてくれる。ずっとこの関係性をつなげていくことを考えている姿勢に、幸せを感じる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?