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英国総選挙2019ーーリセット資本主義ーー階級政治vs文化戦争(2)

2019年英下院総選挙の争点は「ブレグジット」と「公共投資(社会保障拡充とインフラ整備)」の二つだ。後者は「NHS(国民保健サービス制度)」と言い換えてもいい。この二つはそれぞれ文化戦争と階級政治を象徴するものでもある。

ブレグジットは英国にとり、最も先鋭化した文化戦争ーーEUという連合体の一部であることを望むか否かを決する投票ーーの結果だ。EU懐疑派の政治的スペクトラムは極右から極左まで多岐にわたり、階級は貴族から最下層までの幅がある。EUの規制を嫌い、完全な自由貿易を指向するリバタリアンがいる一方で、EUの新自由主義的な在り方に否定的な社会主義者もいる。そんなわけで離脱派は、残留か離脱かの二者択一を迫る国民投票のような極端な機会がなければ、絶対に同じ側に立つことはなかった人々の集団だ。現状維持を望んだ残留側にも幅があるが離脱派ほど極端ではない。

ボリス・ジョンソンは、サッチャーを憎悪する元炭坑労働者やその家族などを含む、ブレグジットを支持するのでなければ保守党に投票することなど夢にも思わなかった有権者の票を当てにして選挙に勝とうと企図している。

NHSは英国にとり、最も成功した階級政治の産物だ。第二次大戦で前線に立った労働者と銃後を守った労働者が、戦勝首相チャーチルを大戦の完全終結(日本の降伏)さえ待たずにお払い箱にし、1945年7月、アトリー労働党政権を誕生させた。そして、ベヴァリッジ報告書に基づく福祉国家体制を作らせたのだ。このときにできた「ゆりかごから墓場まで」と唱われた戦後福祉体制のうち、今もそれなりに機能しているのはNHSだけと言っても過言ではない。公共事業を次々売り払ったサッチャーも、サッチャー路線をおおむね引き継いだブレアのニューレイバーも、緊縮財政であらゆる公共予算を縮小したキャメロンもメイも、NHSを売り払うことだけはできなかった。「病気はカネを払ってするような道楽ではない」の福祉哲学のもとに無料医療を提供するNHSは多くの英国人の誇りであり、いわば国教のようなものだ。英国国教会とどちらを取るか投票したらNHSが選ばれるだろう、EU国民投票よりも大きな票差で。

そのNHSも今や息絶え絶えだ。緊縮財政でもう10年も保健予算が圧縮され続けている。予算額だけみると年々少しずつ増えているが、高齢者の増加による医療業務そのものの増加や疾病の複雑化に則していないため、予算が全く足りていないのだ。緊縮はありとあらゆる分野に及んでいるので、ちぐはぐなことが起きている。例えば、一人暮らしの高齢者が自宅で転んで骨折したとする。入院治療は終わっても、まだ安静が必要であるために帰宅させるわけにはいかない。以前なら、完治するまで身の回りの世話をしてくれる高齢者用施設に入っていたところだが、それらの施設も予算削減で受け入れる余裕がない。そうなると治療の終わった人がずっと病院にいることになり(こういう人々を俗に「ベッドブロッカー」と呼ぶ)、次に入院の必要な人のためにベッドを空けることができない。こうした悪循環があらゆる分野に及んでいる。

また、NHSにもPFI(財政健全化を理由とした公共事業への私企業参入)が導入されており、ここでも不合理なことが起きている。例えば、車椅子やストレッチャーなどの運搬業務をこなすポーターという職種がある。同じ一つの病院の職員として雇用されていれば、勤務時間内の手すきの時に他の雑用を頼むこともできるだろうが、私企業に雇用されたポーターはポーターしかしないし、本人が望んでもできない。同じ一つの病院にNHSの看護師とPFIの看護師が同時にいることもよくあり、同じ仕事をしていても私企業に雇用された派遣看護師の方が給与が高い。ただでさえ足りない保健予算の一部は配当として、私企業に投資する人々のポケットに入っている。

今選挙では、金額には大きな幅があるものの、保守党・労働党に限らず全政党がNHS予算拡大を公約しているが、コービン労働党は「誰かの不幸で儲けることがあってはならない」として、NHSからのPFI除去も掲げている。

期日前総選挙が下院で可決した翌10月30日、選挙前最後のPMQs(首相質疑)があった。毎水曜の恒例なのに、ジョンソンが質疑に応じるのはこれがやっと3回目だ。ジョンソンは夏期休暇明けの議会が始まるとすぐに議会停止を発令、最高裁命令で議会再開後も保守党党大会演説や他国首脳との会談を水曜に設定するなどしたので、PMQsには他閣僚が代理に立った。ジョンソンは質問に答える機会を可能な限り避けているように見える。保守党党首選でも、他の候補者たちが立ち会う質疑応答集会に最後の最後まで出席しなかった。自分が取り付けたEU離脱合意が下院の第二読会で可決したのに、議員たちからの質疑に応じるのを避けるために保留にし、総選挙を選んだ(第二読会で可決すると、特別委員会や下院での質疑・修正を経て第三読会に進み、ここで可決すると上院に送られる)。

ジョンソンが質問に答える機会を避けるのは答えられないからではなく、場を繕うために嘘をつくからだとワタシは考えている。彼はロンドン市長の時も外相の時も官僚のブリーフィングを読まないことで悪名高く、だからと言ってわからないとは言わずに軽口やデマカセを口にして何度も失敗している。語り口は面白いが著しくディテールに欠け、嘘やミスリーディングがてんこ盛りだ。アフターディナー・スピーカー(晩餐会などで食事後にあるスピーチをする来賓)に最適の人物としてよく知られているジョンソンはエンターテイナーではあるが「事実」とは相性が悪い。

選挙前最後のPMQsで、コービンは、公式野党党首の質問6回を全てNHSに関するものにあてた。最初の質問は、この2日前の月曜日に『チャンネル4』のドキュメンタリー枠『ディスパッチ』で放送され、明らかになった事実についてのものでだった。英国政府の役人が米国の製薬大企業と繰り返し面会している事実を調査した番組だ。EU離脱後に、とりわけ合意なしで離脱した場合に、米国との自由貿易にNHSが含まれると労働党は繰り返し懸念を表明しており、ジョンソンは否定しているが、すでにそうした話が進んでいる証拠だった。

翌31日は、「10月31日にEUを離脱できないぐらいなら、のたれ死んだ方がマシ」等とジョンソンが再三述べたEU離脱期限だ。期限は2020年1月末まで延期され、もちろんジョンソンはぴんぴんしている。

この日、労働党は南ロンドンのバタシーで選挙運動ローンチの集会を持った。コービンのスピーチは力強く、これまでよりもダイレクトに大富豪を攻撃するものだった。「NHSは売り物ではない」と彼が述べた下りで、会場の支持者たちから「NHSは売り物ではない」コールが何度も起きた。

晩の6時、ブレグジット党党首のナイジェル・ファラージュがレギュラー出演している『LBC』のコールイン・ラジオ番組が始まった。この日コールインしてきたのは米国大統領のトランプ本人だった(録音で放送された)。トランプはさかんにジョンソンを褒めそやし、ただし彼の離脱合意には感心しないと文句を言い、コービンを名指しで攻撃した。コービン労働党にとって、願ってもない状況が転がり込んできたことになる。

11月14日、10月1ヵ月間のNHS緊急外来待ち時間が、2004年に「4時間以内に95%が受診」の目標値が定められて以来、最悪の83.6%を記録したと報道された。緊急外来を訪れる人の多い冬はNHSの危機の季節だ。

この2ヵ月前の9月18日、『FT(フィナンシャル・タイムス)』紙が新しいアジェンダを提案した。その日のFT紙は全体が黄色いカバー紙で包まれ、第一面には黒々とした大きな文字で「キャピタリズム。リセットの時だ(CAPITALISM. TIME FOR A RESET)」とあった。FTのチーフ経済ジャーナリストであるマーティン・ウルフによる論考はペイウォールが外され、誰でも読めるようになっていた。普段はFTを読まないような人にも読んでもらいたい、考えてもらいたい、という編集部の意気込みの表れだろう。経済界のみならず政界やメディアにも大きな影響力をもつFTが、このような形で新アジェンダを提示するのは2008年の金融危機以来だという。

「金利資本主義はいかにしてリベラルデモクラシーを破壊するか」と題された論考は、かいつまんで言うと、金利(カネがカネを産む経済形態、労働なき報酬)で資本家を巨大化させる現在の資本主義モデルは、生産性を向上させず、資本は社会にほんのわずかしか貢献しない。貧富の差は拡大する一方であり、それら富の偏りによりデモクラシーが圧縮される、という主張だった。

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この約2週間前、FT紙に経済学者の公開書簡が掲載された。「英国の失敗した経済モデルの改革には、労働党の大胆なアイディアが必要だ」と述べるその書簡には、米ダートマス大学デイヴィッド・ブランチフラワー教授をはじめ、ダニ・ロドリック(ハーバード大)、トマス・ピケティ(パリ経済学院)他、経済学者82人が署名者として名を連ねていた。この後、数日間にわたり、FTは労働党の経済政策を詳細に検証するシリーズを連載した。

機能不全に陥った新自由主義をどのように解体し、より多くの人のために機能する経済をどう構築するか。「文化戦争」、とりわけ気候危機への憂いを取り込んだ「階級政治」がその答えのような気がしている。

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訳しました⇒アレックス・ナンズ著『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店(ここで一部立ち読みできます)

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