膝行にてお進みあれ(短縮版)


 梶村祥四郎にとって、一世一代の晴れの日だった。 先月、城下のはずれにあった在家より出火があった。たまたま現場を通りかかった祥四郎は町方衆とともに消火に努め、町奉行配下の役人たちが駆けつけたときには、一棟の全焼のみで鎮火していた。大方は町衆の働きであったが、その場にいた唯一の藩士として特に手柄を認められ、藩主へ拝謁の栄に浴することになったのだ。

 祥四郎はすでに大広間にいて、時間が過ぎていくのをただ、待っていた。藩庁の大広間にはいるのは初めてである。遠国にも見事さが聞こえたという庭園に面した襖は閉じられ、広間の両脇にならぶ藩士の体温も相まって、熱気が濃くただよっている。
 はるか前方からかすかに太鼓を打ち鳴らす音が聞こえてきた。同時に、一同が居住まいを正す衣ずれの音が前方から波のように流れてきた。祥四郎も改めて居ずまいを正し、太股にあった手を畳に滑らせ、平伏した。右手前に座っていた組頭の松村治左衛門がささやくように声をかけてきた。
「梶村祥四郎道信殿、前へお進みなされ」
 祥四郎は「はっ」と返事をすると手を股におきなおし、正座した膝を片足ずつ上げ前へ進むそぶりをし、平伏した。再びはるか前方より、太鼓の音が聞こえた。治左衛門は片膝立ちになると、いくさ場での総掛かりを下知するかのように、伸ばした右手で前方を指し示した。
「梶村殿。いざ、お進みあれ!」
 祥四郎は先ほどよりも大きめの声で「ははっ」と応え。手を両ももへ戻すと同時に背筋を伸ばし、視線をやや前方に向けた。膝立ちを交互に繰り返す膝行でゆっくりと進み始めた。
 両脇に燭台がならんでいるが、広間は薄暗く前方の様子はわからない。あるいは、彼方にほんのり明るく見えるあたりが殿のおわす場所であろうかと祥四郎は思いながら、しゅっしゅっという衣ずれの音を小気味よく鳴らして前進した。

 四半時ほどが経った。顔や背中から吹き出した汗が、着物にしみ込んでいく。息もだんだん上がってきた。しかし、前方にあるはずの藩主の御座所はまだ見えてこない。祥四郎は前方に、盆に大ぶりの茶碗と手ぬぐいを乗せてささげ持つ小姓がいるのに気づいた。近づくと、小姓は盆を祥四郎に差し出し、
「これを」
と声をかけてきた。
 祥四郎は膝行を止め、正座になおってのち、平伏して応えた。
「ありがたく頂戴いたす」
 茶碗には水が入っていた。汗をかいた身体に、水がしみ渡った。一気に飲み干した茶碗を盆に戻し、手ぬぐいを手にとった。一度水につけ、固くしぼった手ぬぐいだった。
「失礼つかまつる」
 祥四郎は、周りにいる藩士に向かって小さく声をかけ、襟元を緩めると、手ぬぐいで頭、顔、首筋、脇、胸を順番にぬぐい、汗をふき取った。そしてすばやく整えると、手ぬぐいを盆に戻し。
「ありがたき幸せ」
 と言つた。小姓が「いざ」と声をかけると、祥四郎は再び膝行に戻った。

 しばしの休息で、落ち着いたかに見えたが、またすぐに息が上がる。さらに、足腰は言うに及ばず、全身の筋肉が悲鳴を上げはじめていた。汗で着物が背中や足に貼りついていた。居並ぶ大勢の藩士たちが祥四郎に注目していたし、姿は見えないものの殿の御前である。前進を止めることはできない。主君が待つその場所まで、何としてもたどり着かねばならないのだ。祥四郎は必死の思いで膝行を続けた。先ほどと同じように、ほぼ四半時ごとに盆を持った小姓が座っていたのがありがたかった。

 祥四郎が膝行をはじめてから、とうに一刻が過ぎていた。いまだに、殿の御座所にはたどり着かない。前に進む速さは格段に落ちていた。それどころか、姿勢を保つのもやっとの有り様になってきた。一歩進むたびに肩がおおきく上下し、呼吸が激しくなり、ぜいぜいという音を隠すこともできなくなっていた。居並ぶ藩士から、「しっかり。しっかり」と声が飛ぶ。汗で前もよく見えない。励ましの声を頼りに、祥四郎は無心で前へと進んでいった。もはや何のために進んでいるのかさえも、頭になかった。ただ、進むのみ。進むのみ。

 突然、太鼓を打ち鳴らす大きな音が聞こえた。
「梶村祥四郎、そこへ直れ」
 続いて、野太い声がした。国家老の岡山殿だと思われた。祥四郎は反射的に膝行を止め、正座になおって平伏した。息は上がるばかりだったが、深呼吸をくりかえし、何とか押さえようと頑張った。全身から拭き出す汗が畳を濡らすのが分かったが、どうすることもできないまま、その場にうずくまっていた。
「梶村、苦しゅうない。面を上げよ」
 正面から涼やかな声が聞こえてきた。
「ははっ」
 祥四郎は悲鳴にも似た声で返答し、上半身を少しだけもたげた。視線は落としたままだ。
「こたびの働き、実に見事であった。よって加増いたすこととする」
 さわやかで朗々とした声だった。祥四郎が藩主の声を聞くのは、もちろんはじめてのことだった。この声を聞くために、一刻以上もの時間をかけて、広間を膝行してきたのだと思うと、ようやく満ち足りた気持ちにもなれた。全身に至る疲れが、中心から外にむかって晴れていくのを、祥四郎は感じていた。
「詳細については後日、組頭を通じて言い渡す」
「ははっ」
「今後も領民の良き範となり、いっそう励め」
「ありがたき幸せに存じ奉りまする」
 語尾に涙声が混じった。
「皆の者、大義であった」
 藩主は朗々とした声でそういうと、御座所から下座まではるかに長い藩士の列から「ははーっ」という声とともに、前から後に向けて平伏の波が流れていった。
 やがて、藩主が退出すると、ふすま側に座っていた藩士が一斉に立ち上がり、ふすまを一気に開け放った。藩士たちは広間から直接、外廊下へと出ていった。今し方まで夜のように暗かった広間に、明るい日差しに満たされた。十里はあると伝わる長い長い広間の中で、祥四郎はひとり平伏を続けていた。

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