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白燈

まっさらな布地を指でなぞった。

ざらりざらざらと爪音を弾くカンバスを
ひとしきり眺めた後にふっと溜め息を吐く。
そして一歩、二歩下がり座に着いた。

そうして向き合ったままの四畳半には
知らずのうちに斜陽が射していて、
何も描かないのかとばかりに
足元に散らばった画材を照らしている。
わかってるいるよ。と、ひとりごちて
座したまま私はそうっと目を閉じた。

いつの日だったか、
半ば衝動的に購入したカンバスとイーゼル。
それに合わせて
ワンルームから2DKの部屋へ引越し、
アトリエなんて呼ぶには甚だ失礼な程度の
四畳半の中央にそれらを並べてみたものの
今現在まで何も描けずにいる状況だ。

きっとこれからどんな絵にも成れる
そんな可能性を奪ってしまうようで。
取り返しのつかない汚れを着けてしまいそうで。
ただ、それでもこのまま埃を被らせてしまうのも
気が引けて、どうにか描いてみようと
筆を取って置いてを繰り返している毎日だ。
そうして何十色と揃えた絵の具もただ持て余して、
尖らせた鉛筆を突き立てることもないまま
気づけば部屋は仄暗い闇に飲まれていた。

今日も何も描けずじまいか、と
いつもであればカンバスに布を被せて
席を立ち踵を返すところであったが、
顔を上げると、私の目を奪ったのは
小窓からまるで淡いスポットライトかのように
柔らかな月明かりが降り注いでいて、
より白く明るく燈されたカンバスだった。

わざわざ色を塗らなくたって、
こんなにも綺麗だった。
なぜ描けなかったのかなんて、
思えば簡単な事だ。

あの時に抱いた衝動は
何かを描きたかった訳では無かったのだ。
染まっていないからこそ何にだってなれると、
未だ何者でもない自分自身を写したような
ただの真っ白なカンバスが欲しかっただけだ。

ようやく気づけたのだと解ると、
そっと私は筆を置いて、ペンを執った。
真っ白なカンバスは真っ白なまま
私の大切な宝物になった。

太陽に照らされた月が
目の前のカンバスを照らして、
更に私を照らしてくれた様に
私もまた誰かの明かりになれますように。
そんな理想を思い描いて
綴る言葉を携えて、真っ白な滑らかな紙の上
そっとペンを走らせた。

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