一人でもちゃんと死にますから
『Fate/stay night Heven's Feel Ⅲ.spring song』
かなり遅くなりましたが、無事映画館で観測することができました。
間違いなく人生で一番のアニメを見たと断言できます。完璧です。
とりあえず、あと3か月くらいは余韻で生きていけそう。
私は人生で泣くことなんて、数えるくらいしかありませんでした。
だから映画で泣くこともありません。今回も涙を流すには至りませんでした。
ただ、涙がこぼれそうになり前が見えなくなるという想定外の事態が発生。加えて、それが涙を流すべき場面ではなかったので私自身を混乱させました。
その場面というのが『セイバーオルタ×ライダー』の戦闘シーンです。
圧倒的な力を振りかざすセイバーと縦横無尽に飛び回り魔眼を駆使して対抗するライダー。
刹那の瞬きをも許さない息を呑む戦いに涙がこぼれそうでした。もちろん凝視によって目が乾いたからなどという無粋な理由ではありません。
この瞬間を私の本能が「ここが頂点である」と告げたから。
これ以上の感情をこれからの人生では更新できない。そんな未来予知とも人生への諦めともいえる涙だでした。
閑話休題。
本作で特に印象に残りすぎているのが、桜の「一人でもちゃんと死にますから」という言葉。
こういった思いを持った人間の何割が一人でちゃんと絶命することができたのだろうか?
そもそも『ちゃんと死ぬ』というのが現実的に可能なのか。
ただ一人でこの世界から消えるというだけなら覚悟を持った者ならばできる。
他者への影響を考慮しないのが条件付きで。
桜のように罪を犯した者の死への選択は救済かつ逃げで償いではないと、作中では描かれていました。
人は何かしらの罪を持っているものだと思いますが、大半の人は桜のように人間を殺めるほどの罪は犯していません。
そんな人たちの死の選択でさえ、逃げだというのはいささか疑問です。
罪の荷重で選択の意味は少し変化しますが、変わらないこともあります。
一人で死んだとしても、残された者たちは虚無と後悔を背負いながら生きるということ。
『ちゃんと』というのは難しいものです。
それを果たすには人並外れた覚悟だけでは不足らしい。
残された者たちが何も背負うことがないようにしなければそれは達成できません。
そのためには本当の意味で一人になるしかありません。
自分自身に深く干渉する人間を廃絶させる、廃絶するまで耐えることが必要です。
自分が絶命しても誰も何も変わらない。
そんな状況を作り上げることによって「一人でもちゃんと死にますから」という言葉をようやく完遂することができます。
骨が折れますね。
この息苦しい世界に生まれた自分という生命を自分自身で揺さぶることの善悪の所在を私は未だ判断できずにいます。
結論は出ませんが、ちゃんとする必要はないのかもしれません。
世界に反撃する意思を込めた八つ当たりのような最期も絶望に寄り添う孤独な最期も。
きっと意味なんてない。
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