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【ピチカート・ファイヴ】ベリッシマ!

1989年1月19日。
「友人に借りた、ピチカート・ファイヴ「ベリッシマ!」聴く」
1月20日。
「ピチカート・ファイヴ「ベリッシマ!」ばかり聴いている。「日曜日の印象」はすごい」
1月26日。
「ダビングカセットずっと聴いてたが、結局御茶ノ水でピチカート・ファイヴ「ベリッシマ!」CD買う」

 いまだに大好きなアルバムです。
 ボーカルが佐々木麻美子さんから田島貴男さんに変わった1枚目。
 
 私、ピチカート・ファイヴを抜群にいい時期にくらってまして、大学1年「カップルズ」、2年「ベリッシマ!」、3年「女王陛下のピチカート・ファイヴ」、4年「月面軟着陸」と初期ピチカートを、まだ少年時代の多感さで受け止めつつ、さらに少しずつ詞や曲を冷静に読み解けるようになり、行けるライブは片っ端から行ける年齢になっていたわけで、いまだにこの4作は自分の血となり肉となり、です。
 
 しかしウィキにも書いてますがこの「ベリッシマ!」、当時「ミュージック・マガジン」で酷評されたりしてたんですよね。
 
 でも1曲目の「惑星」のグルーヴを素直に気持ちといいと感じた私は、中毒のように聴き続け、この2か月後に初めて海外旅行に行くんですけど、イタリアやスペインで1か月間ずっと、ウォークマンで「カップルズ」と「ベリッシマ!」をよく聴いてました。
 なので個人的にはそのときの風景(なぜか景勝地よりも飛行機待ちの空港のほうが多いんですけど)がリンクしてよみがえってきたりもします。
 
 惑星

  ちなみに上記私の日記に出てくる「日曜日の印象」はまさかの自殺の歌なんですよね。衝撃でした。
 普通なら英語のあたりさわりないフレーズが似合いそうな歌の合間のオシャレな女性コーラスが、「二時半過ぎ」「五時半過ぎ」とか、いままでポップスで聴いたことない生活感なワードだったりするのもすごかった。
 
 日曜日の印象

 あとファンの人なら気づいてる人も多いと思いますが、小西康陽さんの詞に「ひどく」という、ふだんあまり使わない形容詞が多いんですよね。
 惑星「夜はぼくらをひどく悲しくする」「きみといるのにひどく悲しくなる」、日曜日の印象「ひどく時間かけてバスルームでひげを剃ってた」「ただひどくくたびれている」「ひどくつまらない男ありふれた話」、これは恋ではない「抱き合うたびひどく痺れるような」。
 とても(いい意味で)引っかかるんですけど、どういう意図で「とても」とか「すごく」じゃなくて「ひどく」だったんだろう。村上春樹先生の影響とかあったのかしらと、当時考えてたことを思い出しました。
 
 もうひとつ。
 95年に小沢健二さんがリリースした「愛し愛されて生きるのさ」がちょっとセンセーションだったのは、「♪10年前の僕らは胸を痛めていとしのエリーなんて聴いてた/ふぞろいな心はまだいまでも僕らをやるせなく悩ませるのさ」という歌詞でした。
 当時、小沢健二さんのような(としか言いようがないですが)ミュージシャンが、サザンオールスターズのような国民的メジャーバンド(と大ヒットドラマ「ふぞろいな林檎たち」)のことに触れる、というのはとても斬新で新鮮なことだったのです。
 
 でも実はそれをさかのぼると、88年の本アルバム「ベリッシマ!」で小西康陽さんが作った「これは恋ではない」になるというのが私の持論。
 「♪夜のドライブはいつもふたりきり/ラジオから流れてるいとしのエリー」そしてスキャット風女性コーラス「♪My Love So Sweet」。
 これを聴いたとき、私はけっこうな衝撃を受けました。あんな誰でも知ってる歌を、いまさら好きというのも気恥ずかしい超ヒット曲を、こんなにオシャレに歌詞に落とし込めるんだ! と。
 なので「愛し愛されて生きるのさ」を聴いたとき(とても大好きな曲です)、すぐに「これは恋ではない」の影響があるんだなと思った、という話でした。
 
 これは恋ではない

 (めんどくさいことにピチカート・ファイヴの次の次のアルバム「月面軟着陸」には、奥田民生さんを迎えた「これは恋ではない」ラップバージョンがあるのでお間違えないよう)

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