右の足には金の靴、左足にはガラスの靴

「二足の草鞋を履く」という言葉がありますが、広辞苑によると「同一人が、両立しないような2種の業を兼ねること。転じて、単に二つの職業を兼ねること。」と書かれています。元々はたとえばエロゲのシナリオライターが非実在青少年運動をするような、仕事が矛盾している状態、つまりネガティブな場合を言う表現としてしばしば用いられたそうですが、最近は良い意味や尊敬を込めた意味でも使われるようですね。

 名刺交換会とか、志の高い人の中に入っての懇親会とかはあまり行かないのですが 、主催者が自分の好きな人だったりなんかするとそういう場に顔を出すこともたまにあります。そういう場でよく言われるのが上述の「二足の草鞋(わらじ)ですね」的なフレーズです。

 実は私はこのフレーズがあまり好きでは無くて、「草鞋かぁ・・・」と心の中で思ってしまうわけです。「草鞋」は「草鞋銭(わらじせん) 」などのようにたいしたことの無いたとえのように使われる用法の方が多い気がします。まぁ、相手はそこまで深くは考えて発言していないかもしれないので、わたしが個人的な印象で嫌っているのだと思います。

 先日、電車を降りて会社までの数分間の道のりで「じゃぁ、なんだったらいいのかな」なんてことをぼんやりと考えながら歩いていました。思いついたのが「右の足には金の靴、左の足にはガラスの靴」でした。二足の草鞋と表現すれば、それは区別されうる一組の草鞋が二足あるっていうことですけど、私の場合はサラリーマンも物書きもそんな区別してる感覚が無いんですよね。思考が連続しているというか、会社の席に座っている状態と、自宅の仕事場に座っている状態がシームレスにつながっていて、思考は別々ではありません。やはり、左右の足に違う靴を履いて歩きにくいながらも一生懸命やっている感じ・・・自分で言うのも変ですが。

 履いているのも草鞋なんかじゃ無くて、右の足には100年以上続く歴史ある会社でこれまでの多くの先人たちが磨き上げたものを社会への貢献や次の世代への継承の重責を担っているという気持ちを込めて金の靴、左足に履いているのはその輝きは金にだって負けはしないけれど、自分で磨き続けなければあっという間に美しさが失われ、それどころか一瞬で壊れてしまうことだってあるかもしれないガラスの靴。

 そんなね「草鞋」の一言で済ますことの出来ないものだと自分では思っているのですけど、よくよく考えてみると草鞋には「旅 」の意味を重ねる使い方もあるので、それだったら「サラリーマンと物書きの二つの人生の旅をしている」という意味であれば草鞋もまんざら悪くないねって、そんなまとまりのないことを考えながら歩いた寒い朝でした。

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