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SNSとポピュリズム


 今更ながらSNSは、明確な目的への手段として使用する以外は、やらないに越したことはないと実感する。つい最近ツイッターで発信された、ある人の「意識高い系の特徴」という呟きに対し、SNS上で一番危惧される行動「ミイラ取りがミイラになる」=(異論を述べ、重箱の隅をつつかれ炎上し、不毛な議論で精神的に疲弊)を起こしそうになったので、ここに記す。まず、その発端となった呟きの内容だ。

「昨今の意識高い系の特徴」
・夫婦別姓
・同性婚だったりする
・夫、妻ではなく「連れ合い」「パートナー」などと呼び合う。
・ヴィーガン
・「自然」とか「有機栽培」とかを好む
・外国に憧れ
・日本に不満
・好きな言葉はSDGs(※でも多分朝日・毎日新聞は購読していない)

 私感だが、これらは全て「偏見」と取れる。しかし、この発信に対し同調する意見が多く、否定的な意見「何を拗らせたらこのような発言になるのか」と述べたリベラルに対して偏見の発信者は「人生を拗らせた奴というレッテル貼りをされた」と激しく反論している。

 今の時代を象徴するようなやり取りである。最初にレッテル貼りをしたのはどっちだ?と言いたい。「意識高い系」を「こういう人」と偏見でレッテルを貼り、バカにして仲間と盛り上がっていたのに水を刺されたと感じて逆ギレしたとしか思えない。

 すでにご存じの方も多いだろうが、ツイッターの世界と現実の世界は乖離している。「意識高い」「意識低い」「勝ち組」「負け組」「目覚めてる」「脳内お花畑」などなど。

 なんだ?ここは辻斬りだらけのディストピアなのか?と、最初は仄暗い水の中を高みの見物をしているつもりが、気が付くと自分もヘドロの中にいる。そのうち、現実までツイッターの世界のように、普段関わりのない人の意見にモノ申したくなるという危険性を孕んでいる。なので、しっかりとした線引きが出来ない人、攻撃的な人、人の言葉に傷つきやすい人は近寄らないほうが良い。

 どんな酷いことを考えていたとしても、個人の内心の自由は保障されているとはいえ、SNSは名前の通り、ソーシャルなものだ。内心の自由とは異なり、言論の自由は完全に担保されないと私は考えるが、相変わらずタイムラインは誹謗中傷・ヘイト・名誉棄損・デマが横行している。

 ツイッターとは、言葉によって人を傷つけた「加害者」が「被害者」に反発されたら、待ってましたといわんばかりに被害者面をして大きな声で「こんな酷いこと言われましたー!」と叫び、同情を買う、こんな世界だ。私は今回この「『意識高い系の特徴』という名の偏見」に否定的な意見を述べた人のツイートをリツイート(引用リツイートではない)したところ、最初の偏見の発信者から、ブロックされてしまった。あまりに完璧な、自分のとりまきだけの世界で生きている人間の狭量さに笑いが出た。さすが、他人の自由意志をバカにするだけのことはある。

 こういう顛末なのだ。こんなことを書いていること自体、私も「まんまと釣られている」し、ある人の考えに加担してしまっている。
 SNSは「無」だと言った人がいるが、もしかしたら「無」以下かもしれない。ポピュリズムとはこのように脆い。

 今期、手塚治虫文化賞大賞を受賞した、中世ヨーロッパを舞台に地動説を唱えた人々を描いたマンガ、「チ。地球の運動について」(作者:魚豊)の様に、支配者たちは民衆に知恵をつけさせないよう言論を弾圧してきた。つまり民衆の意識が高くなるのを恐れるのは、いつの時代も自分たちの既得権益をおびやかされると考える者達だ。
 最後に上記作品より引用。"申し訳ないが、この世はバカばっかりだ。でも気づいたらその先頭に、僕が立っていた" 


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