【10】基礎を怠れば、廃れるのは一瞬。基礎を磨く才能が、人を押し上げる #小原課題図書
#小原課題図書 が始まって間もなく、『本を読む本』で、異なる2冊以上の本からつながりをみつけ、自分の考えを導き出す手法「シントピカル読書」を知りました。第10回目の今回は、その“本と本とのつながり”を強く感じた読書となりました。
キーワードは「基礎力」。読書、マラソン、執筆という異なる3つのテーマから得た学びを紹介させてください。
本を読んだら、自分を読め/小飼弾
第10週1冊目、小飼弾著『本を読んだら、自分を読め』。「本は、君を救ってはくれない。けれども、本を読むことで、自分を救える自分になれる」と語る小飼さんは、年間5,000冊を読破するという大変な読書家です。
登校拒否、高校中退、家庭内暴力…。青年期に不運に見舞われた小飼さんを救ったのは「本との出会い」なのだそう。本書では、本を師と仰ぎ、本から学んだ筆者による「本で知った知識を血肉化」するための技術が語られています。
読書で読むのは本ではなく、自分の心
日本を代表する経営コンサルタント・大前研一さんは「自分を変えるには3つしかやり方がない。1つは場所を変える。2つめは時間の使い方を変える。そして誰と付き合うかを変える」という言葉を残しています。読書には、この“3つの自分を変える要素”が備わっているのです。
本を読むことは、著者と会話をすること。つまり付き合う人が変わります。そして本は、本に描かれている世界へと読者を導き、場所を変えます。また、読書の時間を作ることが日々の時間の使い方を変えることに当たります。読書は、自分を変えることに他ならないのです。
そして、筆者は「読書で何が読めるのかといえば、自分自身なのです」とも語ります。本は自分の教養を映し出す鏡。自分が何を知っていて、何を知らないのか。そして何を知ろうとしているのか。本を読めば、自分が読めます。
読書はもっともレバレッジの効く投資
これは師匠・長谷川リョーさんに何度も、何度も教わったこと。本には金を惜しんではいけません。なぜなら、読書はもっとも安く、もっともレバレッジの効く投資だからです。以前のnoteにも書いたように、読書はたかだか千円で著者(つまり相当教養レベルの高い人たち)と思想を共有する手段です。1時間アルバイトをしただけのお金で、著者が何年もかけて作り上げてきた人生を追随できるんです。
本を読まない人にありがちな「時間がない」と「お金がない」は圧倒的な言い訳にすぎません。月に10冊読んでも1万円程度だし、時間はいくらでも切り崩せる。何より、世界でもっとも忙しい人達は、世界でもっとも本を読む人たちです。
筆者曰く、(特に僕たち若い世代は特に)「読書をすることで損をするということは、万に一つもありえない」。だからこそ「本代だけはケチらないようにしてほしい」。僕も最初は、正直「高いな」と思いました。ただ、読書習慣がついてきてからは何とも思わない。もしも寝坊して本が読めなければ、「今日は本をあまり読めていない」と不安になるようにさえなってきた。向上心ではないけれど、「今日一つも成長していないんじゃないか」と後ろめたい気持ちになってしまう。
読書によって「偏見」を貯める。偏見は「教養」になる。
note公式さんにもツイートしていただいた『労働をするか、仕事をするか。その差を分けるのは「教養」である。』でも教養についてまとめましたが、やはり読書は教養の有無を分ける要素の一つです。
アインシュタインは、常識が「18歳までに得た偏見」であると発言しています。常識を疑ってかかる視野の広さ、鋭さ、正確さ(=偏見)が広くなればなるほど、高くなればなるほどに常識的で、教養レベルが高いということを意味しています。
……僕のnoteを読んでくれている人は気づいたかもしれませんが、これって「起業家精神」そのものですよね。「常識を疑ってかかる視点(≒偏見)=起業家精神=教養」です。良質な偏見を集めれば集めるほどに教養は高くなるのです。そういう意味では、本は数多くの視点に触れる機会ですから、教養を高めるのにはもってこいの手段だということが容易にわかりますよね。
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佐々木紀彦著『日本3.0』は、これからの日本において、起業家精神を持たない人間が廃れていくことを示唆していました。つまり教養を求めない人、本を読まない人は廃れていくとも言い換えられると思います。
生まれてこのかた本を読んでこなかった自分がいうことではないかもしれませんが、これが真理ならやっぱり本を読むべきです。最初はストイックなことに感じられるかもしれませんし、ハードな印象を持つかもしれませんが、継続は可能です。「優しいエッセイを数冊読んだことがある」程度の僕でも、こうして毎月10冊以上の本を読めているので。ただ、これじゃあ全然足りない気がしています。週4冊、あわよくば5冊と数を増やしていければな、と思います。
走ることについて語るときに僕の語ること/村上春樹
2冊目は、小説家・村上春樹の自伝『走ることについて語るときに僕の語ること』。村上さんは小説家でもあり、毎年フルマラソンを走るランナーでもあります。本書は、ランナーとしての哲学を著したもの。しかし、走ることに限らず、どんな仕事においても通ずる非常に大切なエッセンスが凝縮された一冊でもあります。
Pain is inevitable. Suffering is optional.-諦めるのはいつだって自分
村上さんが目にしたとある新聞記事に、ランナーがレース中に唱えるマントラが掲載されていたのだそう。
マラソンでいうならば、きついと感じてしまうのは避けがたいことだが、諦めるかどうかは本人の裁量次第だということを意味しています。村上さんは、この言葉がマラソンのもっとも大切な部分を的確に要約していると語ります。
もう、これだけでこの本が言いたいことは痛いほどにわかります。このマントラは、マラソンに限った話ではありません。仕事において、人生において、何にでも共通する話です。
村上さんは月に200Km〜300Kmを走ります。でも、もちろん走るような気分になれない日もあると言います。そんなときは、自分に「お前はいちおう小説家として生活しており、好きな時間に自宅で一人で仕事ができるから、満員電車に揺られて朝夕の通勤をする必要もないし、退屈な会議に出る必要もない。(中略)それに比べたら、近所を一時間走るくらい、なんでもないことじゃないか」と問いかけ、自分を鼓舞するのだそう。…つまり、そういうことです。なんだって一流を目指すには痛みを伴うのです。痛みを伴うのが嫌なのであれば、一流を諦めればいいだけの話です。
仕事という筋肉を鍛え抜く。継続は力なり。
村上さん曰く「筋肉は覚えの良い使役動物に似ている」。注意深く段階的に負荷を与えることで、負荷になれ、順応し、より強固になっていくのだそうです。
しかし、一度手を抜いた途端に筋肉は限界値を落としてしまう。やめた途端に、これまで培ってきたものが崩れ去っていくのだそう。…野球をやっていた頃に「1日休むと3日遅れる」と言われたことがありました、もう、スポーツの競技であればすべて、むしろ何事もきっとそうなんだ。書くことだって筋肉と一緒。毎日正しくやれば上達するし、やめたら下手になる。感覚を忘れる。
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本書では、小説家に転身する以前に村上さんがお店を経営していた頃のエピソードも登場する。その時代の働きっぷりも、まさにランナーとして体を鍛え上げるプロセスと一緒です。
これだけ厳しいことを目の前にすると、弱音を吐きたくもなります。実際、ここ数日そんな気持ちになっていたりもしました。ただやっぱり、自分ができることは精一杯やらないといけない。自分にプレッシャーをかける意味で、これは生きている限り義務に近いものでもあるようにも感じます。僕にとっては、今読むことに意味がありました。
東大入試に学ぶロジカルライティング
さて、3冊目は『東大入試に学ぶロジカルライティング』です。これまでに読んだ『20歳の自分に受けさせたい文章講義』と『新しい文章力の教室』の2冊に比べ、より高度な文章術についてまとめられています。
東大の学部入試、ロースクール入試の問題を題材に取り上げ、解法を示す形で論理的な文章を書くポイントを解説。一読しただけで身につくようなスキルではないため、通読後に改めて要点ごとにまとめてみるといいでしょう。今回は要点をサクッとまとめていきます。
論理的な文章を書くためには、論理的に文章を読む力が必要
まず、論理的な文章を書くためには、論理的に文章を読む力が必要になります。論理的な文章とは曖昧さや抽象的な印象を避けた文章であり、つまり、至極わかりやすい文章です。平易な言葉で紡ぐということではなく、順を追って解説することで相手が悩むことなく答えを与えるものでなければならない。
それを自分の言葉であらわすには、前提を自分が理解している必要があります。自分で理解できていないことを、人にわかりやすく伝えることはできません。つまり脳内にある情報を整理(もしくは論題を正確に理解)できなければ、論理的な文章は書けません。
レトリックは二の次。感受性の有無は必要ない
論理性を持って相手に伝える時に、レトリックや文学的な感受性は贅肉になります。論理的な文章が目指すのは、上述したように「相手が悩むことなく答えを与える」ことです。正確さの邪魔をする感性は、この意味で無駄になる。
「主張」があれば「問い」があり、「問い」があれば「ツッコミ」がある。この問いとツッコミに回答を与え続けられることが論理性であり、それ以外の要素は極論必要ありません。
特に商業的な文章を書く場合なんかは、このことが当てはまるのではないでしょうか。知りたいのは事実であり、そこに書き手の個性を見出す必要は全くない。情報を正確に伝え、疑問視する空白も与えることなく読ませることが価値。書き手の立場になるなら、自分の言葉に論理性があるのかしっかり注意したいところ。
知ったかぶれば、読者にバレる
論理性(理屈)で納得させることを前提とし、さらに深い納得を促す技法に「例示」があります。たとえば…と例を出すことでイメージに訴えかけるのです。主張をサポートする副次的な役割ではありますが、大きな訴求力を持っています。
ただここで注意したいのが、例示は元の原理・本質を徹底的に理解していなければ使用してはいけないということ。「いけない」というより、「できるはずがない」というのが正確かもしれません。
例示をする際は、もともとの分かりにくい原理・本質を丁寧に描写することで伝える技術です。つまり、もともとの原理・本質と少しでも異なるものであってはいけません。内容を理解してこそ例示が成立するのです。
話は戻りますが、やはり「論理的な文章を書くためには、論理的に文章を読む力が必要」になるのです。
本書では、以降の章でも論理的な文章を書くための技術が述べられていますが、その全ては入試問題を解答する形で構成されています。要するに、冒頭で語られる「読めなきゃ始まらないよ」という話が全てなのだと思います。
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今週の3冊は、「シントピカル読書」を強く意識することになりました。印象深いのは「読まなければ、書けない(=前提条件をクリアしなければ、何もできない)」こと。それも、ストイックに。
優れた文章を書くためには、優れた読書家でなければならない。フルマラソンを感想するには、毎日数十キロ走りこまなければならない。教養を積むには、数多くの知見を得なければならない…。
温度感は違えど、人が生きていく上でやらなければいけないことは同じ。とにかく、基礎を磨くことなのではないでしょうか。基礎を磨けば、基礎のレベルが上がる。その人にとっての基礎が他人の手の届かないところにある人がプロなんだと思います。僕も、そっち側に行きたい。