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「日本は座る文化だから」と言われて感じた解放感

以前行っていたヨガ教室で、あるときレッスンを受ける生徒さんは私ともう1人(Aさんとする)、そして先生の、3人しかいないという状況があった。

Aさんはどことなく不慣れな感じがしたので私が「今日、初めてですか?」と声を掛けてみたところ、Aさんは話しかけた私の方を見ず、ヨガの先生の方だけを見ながら

「初めて来ました!先生のヨガやこのお店のことをホームページで知って、来てみたかったんですう!」と答えた。

そのままヨガの先生とAさんの話は、とても盛り上がった。私も会話にちょいちょい参加しようとしてみるものの、Aさんから「私はこのヨガの先生と話したいのよ、あんたは邪魔よっ!」とでも言いたげなオーラをビンビンに感じてしまって、私は「ああ、早くレッスンが始まらないかなあ」とだけ考えて黙ってしまったことがあった。

Aさんのような人とは逆に、自分が場にうまく入れないとき、さりげなく気遣ってくれる人は、なんかいいなと思う。

例えば飲み会のとき、ちょっとトイレに行って帰ってきたら何かの話題で場が盛り上がっていて、自分だけポツンとしていたら「今ね、○○の話で盛り上がってるところ」とこっそり耳打ちしてくれるような人を、私は無条件で好きになってしまう。自分だけが楽しめばいい人より、場全体のことを見ている人がいるとなんだか安心する。

・・この話を海外経験の長い友だちにしたとき、返ってきた意外な答えが「日本人は座る文化だからね」という言葉だった。

海外では座るという文化が日本よりあまりなく、パーティーなんかではみんな立っているのが普通だそうだ。
対して日本は畳文化の影響もあるのか、人と話すときは座っておこなうのが基本で、立食パーティーでも椅子が壁にズラッと並んでいたりする。

だから海外では気が合わない人と一緒になっても、ふらっと違う人のところに歩いて行けるのだが、日本では一回そこに座ってしまうとそれが固定になってしまい、大勢の飲み会などでは必ずしも気が合う人と飲めないのが辛い、ということだった。

この話を聞いて、私はなんだか「もっと自分勝手に振る舞ってもいいのかな」と思ったりした。たとえばさきほどのヨガの教室や飲み会で、あまり気が合わない人といると私はなんとか相手や場に合わせなければとなってしまう。だけど本当は別にいたくなければ出て行ってもいいし、帰ってしまっても別にかまわないのだ。

空気を読めと教育されてきた身ゆえ、急にノリノリのパーリーピーポーになることは難しい。
だが時に空気を読むよりも自分の魂を優先する選択を積み重ねることが、おおげさかもしれないけど、結果的に豊かな人生に繋がっていくはずだ。

今この瞬間の心が動く方へ、座ったり立ったりさながら少しずつでも、移動していきたい。

最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。