見出し画像

「発信が怖い」への1つのアンサー

「私も文章を自由に投稿したりしてみたいけど、読んだ人からの反応が怖い」という相談を受けたことがある。

この気持ちは非常に良くわかる。
私は以前facebookで主に発信していたのだが、投稿ボタンを押した瞬間スマホの電源を切って、布団をかぶって震えていた。
次の日おそるおそるコメント欄を見にいき、批判やクレームがないことを確認しやっと少しホッとする、を何度も繰り返していた。というか今もそんな感じだ。

こんなことを書いたら誰かを傷つけるのではないか、怒らせるのではないか、嫌われてしまうのではないか。

そう思う感覚は正しい。尊い感情とさえ感じる。
「そんな怖がってちゃダメだよ、どんどん行動しなきゃ!」という誰かの言葉を信じて私はとにかく発信してきたけど、結局行動で不安を消すことはできなかった。
では、これらの感情とどう生きていけばいいのだろうか。

今時点の私の答えとしては「こんなことを書いてもいいのか?の是非は、誰にも決められものではない」ということにしている。

もし自分の書いた文章で誰かを怒らせたり悲しませたとしても、文章はトリガーに過ぎない。読み手の怒りや悲しみの源は文章の中ではなく、読み手の中にある。

もちろん誹謗中傷や誰かを傷つけることを意図した文章は論外だけれど、どんなに心を配っても誤解されることはある。文章は世に出した時点で読み手のものだし、それをどう解釈するのも読み手の自由で、そこまで書き手がコントロールすることはできない。

そして自分が書いた文章への反応が悪かったとしても、その部分だけを見て良くないこと・悪いことと捉えるのは、ちょっと尚早な話でもある。

私で言えば昔書いたブログ記事が炎上してしまい、その傷を癒すために通った文章教室で「答えは読む人の中にある」という言葉に感銘を受け、自分でも文章教室を開くきっかけになった。例え読み手をカンカンに怒らせてしまったとしても、そこからどんな物語が始まるかは誰にもわからない。
心を砕いて書いた文章で読み手との衝突が起こったとしたら、それは何か起こるべきことが起こっているサインなのかもしれない。

発信することが怖い気持ちはわかる。でも書き手が思うより読み手は読んでいないものだし、特に発信を始めた最初の頃なんて誰も読んでいないのだから、書きたいことがある人はどんどん書いてほしい。書き方はこのnoteを読んでいれば身につくし、それでも起こった衝突には自分なりに向き合っていく。

言葉というのは必要なタイミングで必要な人の元に届く。それがいつ届くか、どんな形で届くかは天の采配によるものも大きい。
そんな読み手との間に起こるプロセス全て含めて、書くことを楽しむ人が増えたら良いなあと願っている。


最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。