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自分の価値と行動や成果を切り分けると、人生は楽になる

なんとなく社会には「仕事ができない人は、人としてダメな人」という空気がある。
病気などで仕事を退職するとメンタルを病んでしまう人が多いと聞くが、役に立てない=人として終わりという図式がじっとりとこの社会には根付いているようだ。

行動とその人の存在価値。元々全く違う次元の話なのに、高い成果を上げた人は人としても評価され、成果を上げられない人は人格攻撃して良いような雰囲気がこの世界にはある。

かくいう自分も「私が頑張れば、親は私を認めてくれる」という思考が未だに根強くある。これも愛情と成果の対価交換である。

別に私が頑張ろうが頑張るまいが、私の存在価値は変わらない。それなのに心のどこかで「もっと高い行動価値を親に示すことができたら、親はきっと私を愛してくれるのでは」という幻想を捨てられない自分がいる。

だがこれは子ども側の切なる幻想に過ぎない。親からすれば自分たちのために大きな犠牲を払っている子どもなど、ありがた迷惑な存在でしかないのだ。

以前ファミリーコンステレーションというセラピーを受けた時、他の参加者のお母さん役をやったことがある。

子ども役の人は自分の人生を犠牲にしてまで母役である私を助けようとしてくれていた。どこまでも純粋に母の愛を求める姿が眩しくもあったが、正直母親としては嬉しくも何ともなかった。
それどころか「この子より上の子の方が好きだなあ」とかひどいことを考える自分に自己嫌悪したり「なんでこの子がこんなにしてくれるのに夫は何もしてくれないだろう」と一層辛い気持ちになったりした。

水は上から下に流れていくように、親は子どもを助けることができる。しかし水が下から上に上がることはないように、子どもは親を助けることはできない。

親に対してはだいぶこのセラピーを受けた後から自由になった気がするが、他人に対してもまだ心のどこかで愛情と成果は対価交換できるのではないかと信じている自分がいる。

例えば、先日学びの場で打ち上げの幹事をやった。心のどこかで「みんなが嫌がる仕事を引き受ければ、みんなは私のことを愛してくれるはず」と打算的な考えだったことに気づいた。結果、皆さんにお礼は言われたものの、特段モテるようになったとかそういったことは起きなかった。くそっこんなはずでは・・!

成果とお金という物質は交換することができても、成果と愛情は交換することができない。
こうしたこの世界の原則を真に理解し、幻想が打ち砕かれ降参したとき、ようやく人は本当の人生を歩き始めることができるのかもしれない。

移り変わる他者の愛情を追い求める、その自分の後ろにはいつも自分がいる。
その真実を忘れて成果や行動に走ってしまったとしても、何度でもまた思い出せばいいのだ。誰が去ったとしても自分だけは、自分の人生だけは誰にも奪うことはできないのだから。