SNSで活躍する人たちを見て、酎ハイをあおりながら思い出したこと

ある時facebookを開くと、瞑想会を毎日している知人のライブ投稿が目に入った。

彼女は能登地震で被害のあった方への祈りを込めた瞑想会を毎日やっている。誰でもご参加ください、という投稿を見て何だか複雑な気持ちになった。

自分だって被害があった方へ心の平穏を祈っていないわけではないし、できる限りの額の募金もした。しかし毎日熱心に瞑想会をしている彼女を見ていると、そこまでできない自分が白状な人間なように思えてくる。
「LIVE」と書かれてキラキラしている彼女のアイコンを見ていると、なんだかモヤモヤしてチューハイの缶をプシュッと空けてあおってしまった。

SNSを見ていると、活躍している人がとかく目に付く。
大きいプロジェクトを成功させたとか、同い年なのに何人も立派に子どもを育てて幸せそうな人を見てると、なんだか自分がとても小さな人間に思えてくる。
チューハイを飲み干し缶を潰していた時なぜかふと、以前自分がやっていた文章教室での生徒さんとのやりとりを思い出した。

文章ワークショップでは必ず質問の時間を取るようにしている。
「語彙力はどうしたら伸びますか」「文章は最後どうやって終わればいいですか」。
そうした質問の中で、ある人から「私は文章が苦手で、何を書きたいかもわかりません。どうしたらいいですか?」と聞かれたことがあった。私は「心のコップの水が溢れた時、自然と書くときが来ると思いますよ」と答えた。

この美味しいお店をみんなに伝えたい。この美しい花の名前をあの人に教えたい。そうやって伝えたい想いが溢れた時、人はペンを取る。
馬を湖までは連れて行けても無理やり水を飲ませることはできないように、私は書くコツは人に伝えられるが、人に書かせることは出来ない。その時を待つしかない。

ライターの古賀史健さんもその様なことをおっしゃっていた。

書ける人は、もう書いている。
書いているから、書けるようになっていく。
書かない人は、いつまでも書けない。
書かないのだから、書けるようになるはずがない。

漫画家でも、小説家でも、画家でも、ミュージシャンでも、みんな同じだと思うのだ。ほっといてもやっちゃってる人。誰から頼まれたわけでもないのに書いちゃってる人。なかば無限に、いくらでもそれを続けてしまう人。ほめられたいとか認められたいとかビッグマネーを稼ぎたいとかじゃなく、ただそれを続けてしまう人。そういう人だけが、いつしか「書ける人」になるのだとぼくは思う。ライターになるつもりなんてさらさらなかったメガネ屋さんのぼくでさえ、やっぱり山ほど書いていたもの。

書かない人は、書けない。

「書かない人は、書けない」より


最初の能登地震への瞑想会だって、彼女は勝手にやっている。誰に強制されたわけでもなく、やらずにはいられなかった、ただそれだけのことなのである。
SNSで大きなプロジェクトを成功させたというその人は、現状の世の中で大きく変えたいことがきっとあったのだろう。知らんけど。
ただ、それをせずにはいられなかった。その行動に貴賎はない。

同窓会に出た後に味わう「あいつは同い年なのにすごいなあ」「それに比べて私は・・」という感情が、SNSの発展によって毎日味わえるようになってしまった。

恩恵もあるけれど複雑な感情も抱きやすいSNSを見るとき、自分と比べてしまったとしても「これがその人にとってのやらずにはいられなかったことなんだな」と見るようにしたい。

缶ゴミを整理しながら、そんなことを思った。