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人の3大欲求は、等しく尊いもの

大学生のときカナダへホームステイした際、海外の方が日本人ほど「食」への意欲が少なかったように記憶している。

例えば日本の都市部ではすぐ近くにコンビニがある。コンビニに入るとぎっしりと商品が陳列されていて、そのほとんどが新商品だ。

私もセブンコーヒーの10円割引目当てにセブンイレブンのアプリをインストールしているが、しょっちゅうおにぎりやらおかずやら「新商品のお知らせ」が届く。そうして新商品は消費され、また出て、また消費されて消えていく。

対して当時のカナダでは、コンビニそのものがあまりなかった。

食べ物は基本的に週末大型スーパーで調達しておくか、あるいはレストランで食べるかという感じだ。もちろん食べることを楽しむ雰囲気はあるけれど、日本ほど食に賭ける執念みたいなものはあまり感じなかったように思う。

なぜ日本人の食への執念は凄まじいのか。

誤解を恐れずに書いてみると、それは人の3大欲求である睡眠欲・性欲が、日本人は十分に満たされてないからではないかと考えている。

日本人の睡眠時間は年々短くなってきている。私もセラピスト時代は勤務日は休む時間がまとまって取れず、休日10時間寝だめすることでなんとか生きてきた。寝てない自分は社畜の鑑とどこか自慢げに思っていた。

加えて日本人のセックス頻度は世界最低とも言われている。別にセックスまでいかなくとも大切な人との肌のふれあいやペットとの関わりの時間を十分取れれば良いのだが、様々な事情からそれはちょっと難しいという方も多い。
また性について話すのはタブー視されていることも多い。どの欲求も等しく尊いものだというのに。

睡眠欲と性欲を抑圧しているからと言って、食事に十分なリソースを割けている人ばかりでもない。

朝は夜遅いから食欲はないし、お昼は仕事が忙しく抜くこともあり、夜はカップ麺にお湯を注ぐので精一杯、、という生活が当たり前な人は結構な割合でいる。
かつての私も生きる唯一の楽しみはコンビニで新製品を買ったり、カップ麺を物色している時間というほど生活に疲弊しきっていた。

寝る時間も大切な人との時間も、食べる時間も犠牲にして頑張らなければいけない局面というのも人生には確かに存在するが、それが当たり前の空気が強くなっている今の日本は、ちょっと異常事態なのではないかとも思う。

先日、山梨県の方にあるリトリート施設にお邪魔した。

ここで出てくる食事は皆施設の畑で取れたものである。過酷な畑仕事を見学し、畑から取れたもので食事の用意をして・・としていたらもう1日が終わっていた。本来生きるとは、食べるとは、命を頂くとは「ちょっとコンビニで買ってきます」とは正反対のことなのだろうなと感じた。

今すぐ社会の構造を変えることは難しい。でも出来ることはあるはずだ。

例えば周りが残業していても、思い切って定時で退勤してみる。
「月に一回、毎月最終金曜日は自分を休める日」と決めて有給を奪取して、お家のことを整えたりしてみる。
1年のうち1週間は、自然の中でのんびりする時間をとる、
畑仕事に挑戦してみる、
などなど。

自分を犠牲にしてまで守らなければならない社会の当たり前などない。

あの手この手で、自分の内なる声を大切にする工夫を凝らしていきたい。


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小澤仁美
最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。