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厳しい世界で生き残った人が見せた「やさしさ」

大学4年の夏、やっとのことでリラクゼーションマッサージの会社に内定が決まった後、新卒学生のための技術研修が始まった。
そこでオイルマッサージの研修の際に講師から習ったのが、手を温かくしておくことの大切さだった。

「手が冷たいうまい人よりも、下手くそでも手が温かいセラピストをお客さんはうまいと感じる。だからオイルトリートメントに入るときは常に手を温めておくように」
と教わったのだが、現場に出ると1分1秒との争いで手を温めている時間などなかった。

最初の会社は服の上からの揉みほぐしがメインだったので、手が冷たくてもそこまで問題にはならなかった。

しかし次のエステ会社に就職が決まり、オイルトリートメントの施術に入ることが多くなると、冬などはお客さんの身体をブルっと震わせてしまうことが多かった。
手は施術中だんだん温かくなるので冷たいのは最初だけだが、それでも最初のタッチでびっくりさせてしまう。当時の自分の頭をひっぱたきたいが、当時は当時で必死だったのだと思う。

大概のお客さんが我慢していたが、あるとき入ったお客さんに「手が冷たいです。そんな手で身体に触らないでください」とキッパリ言われ、他のスタッフにチェンジしたことがあった。

手を温めるための時間も設備もない。
試行錯誤の末、私は「爪湯」という方法を編み出した。お客さんがお着替えをしている3分間の間に、自分のマグカップへお客さんにお出しするお茶をこっそり注ぎ、そこに指の第一関節の爪の部分までだけつけるという技だ。

湯加減を調整する時間などないので、熱いお茶に指を突っ込む。アツい。でも足湯で全身が温まるように、手の一部分だけでも熱することで手全体がすぐ温かくなるようになり、お客さんを震えさせることはなくなった。

しばらくして、以前「手が冷たいです」とお叱りを受けたお客さんの施術に入る機会があった。怖い、気まずい。いやでも怒られたのはだいぶ前のことだし、もう私のことなんか覚えてないでしょ。と自分に言い聞かせながら、いつもより念入りに爪湯をして施術に入る。

お客さんは何も言わないまま施術は終わったので「あのお客さん、やっぱり私のこと覚えてなかったな。ああよかった~」と一息つく。

着替えてエステルームから出てきたそのお客さんに、何食わぬ顔でお茶をお出しした。
するとお客さんは私を見て「小澤さん、でしたっけ。あなた手がとっても温かくなってたわね。これからも頑張ってくださいね」と言われた。なんと私の顔と名前と前回のこともきちんと覚えていて、その上で励ましてくださったのだった。

後で他のスタッフから聞いたところによると、そのお客さんは有名な声優さんとのことだった。アニメに疎い私でも知っている国民的キャラクターをいくつも演じている、声優界の大御所的な方だった。

声優さんというのはかなり厳しい世界だそうで、どんなに有名なベテラン声優さんでも基本的にオーディションを受けないと作品には出れないらしい。

相手の欠点を言いづらくてもきちんと伝える、一度会った人の顔と名前を忘れない、相手が前回より成長しているところを見つけ伝える、といったことをナチュラルにされていたが、こうしたちょっとしたことの積み重ねが、厳しい世界で今も求められている秘訣なのかもしれない。

実家でテレビをつけると、今もそのお客さんの声をよく聞く。
そのたびに「頑張ってくださいね」と言われたのを、冬でかじかんだ手をさすりながら思い出す私だった。