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人は坐るまでが9割

夏を忙しくやっているせいで、いつのまにか九月であった。

話したいことや書きたいことはたくさんあるのに、やらなきゃいけないことに追われてままならない、という現状は、ちょっと前なら考えられないことでしたから喜ばしいものです。

さて、最近よくするお話ですが、人を呼んだり会を開いたりして坐禅の機会を作っているのは、私自身がそうでもしなければ坐禅をする気にならないからです。
いつも偉そうなことばかり言っているせいで誤解されますけども、私はいまだに坐禅を喜び勇んでするようにはなっていない。ある程度の期間を坐禅に費やしてきて、坐禅を中心に活動しているにも関わらず、皆さんの期待に応えるような、隙あらばいつでも坐禅を好む、そんな実践者にはなったことがない。たぶんこれからも自分が坐るためには人を巻き込むし、またそれが自身の僧侶としての存在理由でもあるともおもっています。

言い訳がましいですが、そもそも坐禅というものは、人間が社会生活を送りながら好きこのんでやれるようなものじゃありません。特別に気持ちがいいわけでもないし、なにか得するわけでもない。それでもやらなきゃならないのは、ひとえに坐禅に対する信仰によるものです。「信仰」というと途端に知能が下がる現代人が多くて辟易するのですけども、当然ながら、「よくもわかっていない坐禅という行為をすれば、この先生きのこれるだろう」といったギャンブル精神や盲信などではない。私にとっての信仰は実際に坐禅をするたびに得られる価値を実感することから生まれている。それは当人の人生においても、またそれを他者と共有してゆくことでも、これは確かに善い事に違いないという確信である。同時にそれは、これまで同じくそう思ったであろう他者から自分へともたらされたものだという理解を恩義として認めていることも多分に影響している。

「袈裟かけて坐ってそれでおしまい」という澤木興道老師の言葉があって、修行を始めたばかりの当時は心底から不可解であると感じたものでした。初心者の坐禅観に照らし合わせると、言い表せない理不尽さえ感じた記憶があります。
なにしろ当時の私はすでに坐禅を馬鹿みたいにやらされる寺で日々過ごしているものですから、「坐禅をするまでのことは自身のやる気と努力でなんとでもなる」と思っていたし、「坐禅をし始めてからこそが工夫のしどころのはずだ」と信じて疑いませんでした。今思えば、これは仕方のない誤解だとはいえ本当に愚かな考えであったと、恥ずかしくてどうしようもない気分がします。前者の誤解についてはまだ半分くらい当たっているかもしれませんが、後者についてはほとんど間違いだと言ったほうがいい。

ここで最も大きな誤解は「坐禅中の工夫によってその成功と失敗を分けることができる」という考えです。この誤解は本当にやっかいで、坐禅を初めてからこれに足を取られない人間はいないでしょうし、またこの誤解から自由になった坐禅をするようになるまで続けられる人も少ない。
「無所得(何も求めない)の坐禅」というのがまさにこの誤解への戒めです。
ただ、この言葉はどうも独り歩きしすぎていて、これを使っている人間の多くが坐禅中の工夫についての指摘、つまり坐り方へのダメだしとして他人にケチつける時に使うので個人的には嫌な言葉となってしまいました。よく考えてみるとわかりますが、その使い方ではどうしても、「無所得」の坐禅を実現しようと頑張ってしまう坐禅をさせることとなり、当然それは無所得ではありえないことになります。「無所得」とは坐禅自体の要件ではあるし、またそれを基準とした修道上の理想でもあるが、社会生活をおくる人間が気軽に適用できるものでもなければ、ましてや、むやみに他人に押し付けてよいものでは決してありません。あたりまえですが、菩提心をおこすのも、わからない坐禅をできるようになる際に必要な努力も「無所得」のままでは行えません。
「ウッ……頭が……!」となるので話を戻します。坐禅中にその坐禅の価値を左右できるという解釈自体根が深いものだとはいえ、できれば離れてもらいたい。そのためには「無所得」を実現するための努力を坐禅中ではなく、準備として行う必要があります。

おかげさまで現在は個人的な体感としても、坐禅の成否を分けるのは坐るまでがそのほとんどすべてで、開始の鐘が鳴った後は1%未満、だと感じています。つまり坐れてしまえばほとんど間違いなく成功だとおもいます。
(念のため、これは個人的体感で、理論上は坐ったら100%成功です。実感を隠すことなく数値に反映しました。坐禅原理主義者の方々におかれましては、どうかお見逃しください。まぁ悟りには理論もへったくれもないはずなので文句のつくはずがないのですけども。ウッ頭が!ちなみに記事の題名は、もし坐禅が覇権コンテンツだった場合に大手出版社から私が本を出すならば使おうと思っているものなのでちょっと世俗よりに約しました。)

澤木老師の言葉と違い坐禅中に少しの仕事を認めた理由として、実際には考え事は手放さなければならないし、姿勢はくずさずにいたいので、全くその仕事がないとは言いたくないためです。ただ、習い性で自然とそれらが行われるくらいの実践経験があればほとんど意識的な操作や努力は必要がなくなります。「実践経験」も含まれるというのはちょっとズルいと思われるかもしれませんが、この部分についてはいわゆる「習禅(スキルアップ的解釈あり坐禅)」の性格が明確にあると個人的には思っています。そうはいっても「坐るまで」の話には違いありません。長くても2、3000炷くらいで済むんじゃないでしょうか。

実質(というより理論上)坐禅の全てと言っていい「坐るまで」、つまり準備としての生活の仕方と修養、そして動機づけですが、ここまでさも意味ありげに重要性を語ってきた割には何も特別なことはありません。準備に必要な知識は書籍や動画で学べる中でも簡単なことばかりですから、こんな坐禅についてのnote読んでくれるような人に不足があるはずもありません。また言葉のみによってここで説得することで、その部分についてよい結果を生むことが私にはできません。強いて言えば、坐るまでの機縁としてもっとも得難く重要なものは、実際にご自身が実践者の実物を見定めて、その生活を学び、坐り始める(続ける)だけの動機を育むことです。

当時の自分が「袈裟かけて坐ってそれでおしまい」を不可解に思った理由は「袈裟かける」までを軽視していたからです。袈裟という布をつけるかどうかという話ではなく、そこに至るまでの経過の重要性を、軽視といわず無視と言ったほうが正しいほどに、わかっていなかった。今思えば澤木老師には「三阿僧祇劫(成仏するまで)とは坐蒲に坐るまでの間を言う」という言葉もあったのですが、そのふたつが繋がるまでには長い時間がかかったように思います。
また、坐ってからの余計な作業を正しいことであると見誤っていたことが直接的な失敗でした。これは「無所得」であるべき坐禅を自ら汚そうとしていたとも言いかえられることです。それほどまでに本当に何もしない、「無所得」という事が想像もつかなかったために、(あと、「無所得」をむやみに使う人が多いために、)これは仕方のないことですから全然反省はしていない。
そうして坐禅を坐れるようになるまでには多くの時間と条件が必要だったのですが、その結果として坐禅の内容がどうなったかは前回のnote通りですので、実現された行為としての坐禅自体はそんなに大げさな話ではなく、やはり言葉にするなら「坐禅をするまで」が坐禅の全てのように感じる。

現在の私はこれまでをふりかえって「袈裟かけて坐」らせてもらえるまでの様々なことに大きな感謝を持つことができていますが、それと同時に、同じことを他者にやってもらうことが生存の理由となってしまった。個人的には他者を巻き込むことのない坐禅には、もはやいかほどの価値も感じられない。極端な話をすれば、私の行為がその後誰にも全く影響を与えない状況であれば、坐禅をわざわざしようと思う時間はほとんどないだろうと思う。(その場合おそらく生きようとも思わない。)
私が初めて「坐禅はすばらしい」と心の底から思ったのは修行開始後ほどなくしてでしたが、それはいわば蓋が開いたような経験だった。それからだいぶたって、坐禅会など開催して参加者と一緒に坐るようになってからどうやら「底が抜けた」ようでした。自分の中で坐禅というものが一つ揺るぎないものとして成立したのはいつかと聞かれればこの間が最も大きな印象です。「他者が坐ったことで自分も坐る」から「自分が坐ることで他者も坐る」への変遷は、自身が僧侶として生きてゆく上でも、坐禅を本当の意味で坐れるようになるためにも必要だったと思う。

というわけで、その副作用?のせいで自分一人で坐ることがほとんど無くなってしまったのです。といっても正直に言えば僧堂時代から一人で坐るようなことはほとんど無かったので、おそらくこれは性格上好ましい方針を都合のよい解釈で隠蔽しているだけともいえます。(なので開示しておきます。感覚上無自覚なのでセーフですが。)そのため、他者をまき込むことのない坐禅の可能性については否定する気はありません。

とにもかくにもですが、私と坐禅の付き合いはこういった形であって、これを読んでいるような人がだれも実際に坐禅をしてくれる気にならなければ、いつ縁が切れて来世に期待するしか他ない状況に追いやられても仕方のないものなんです、というお話であった。

本当にありがたいことに日々様々な方と顔を合わせてお話しができて、また一緒に坐ってもらえる機会も増えて、いつもにっこり文句なし男です。ただ、冒頭のお話しのように、どうにも私が一人で好きこのんで坐禅を坐りたがっているだけだと思われている気がするので(別に問題は無いのですが)、ここらへんではっきりと「あなたたちの坐禅が私を坐らせているんですよ」と書いておきたかった次第です。どうもありがとうございます。最後にエモくすればモテるって昔先輩に習ったのでエモくしてみた男。坐禅会で待ってますからね。



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