1Q84とクオリア、シュタイナー「思考」、カント「物自体」、ドゥルーズ「超越論的経験論」、ベルグソン「イマージュ」

◇4 『意識に直接与えられたものについての試論』

3/17/23金から、読み始める。言語や空間は、実用的な生にとっては重要である、とのベルグソン的なテーマが浮き彫りにされている。

これが次の『物質と記憶』『創造的進化』、そしてドゥルーズでもトーンが落ちる『道徳と宗教の二源泉』へと向かう。しかし、ここがドゥルーズの言う「超越論的経験論」の領野であると思う。しかし、まだ、そのどれもが最後まで読みきれず、全容は分からない。

ケン・ギルバートやロボマインド、その他諸々の著作にとっては習熟しながら、ベルグソンをどのように捉えて行くか、それがひつつの戦略であろう。

◆3 鈴木大拙とシュタイナー、デカルト、カント、そして超越論的経験論

ケン・ギルバートは、『意識のスペクトル』(英文)で、鈴木大拙の言葉を引用しているが、確か、意識の分離について書いたものだ。自分という意識があり、その意識が、自分の意識を見つめている。内省という行為だ。

これは、デカルトの自我と同じで、自分が、自分を感じながら、自分以外の対象を思うのと同じように、自分を対象の一つとして見つめている。

昨今の議論では、二項対立の源として、デカルトが主客を分離させ、揶揄の矛先を向けられている。例えば、サティシュ・クマールの『汝あり、故に我あり』などだ。しかし、ロボマインドプロジェクトでは、この主客分離により、仮想世界としての知性が生まれという趣旨の事が言われ、肯定的に捉えられている。

これは中村昇氏がシュタイナーで『ルドルフ・シュタイナー 思考する宇宙』で解説している「二重の自己」と相通じるものがある。シュタイナーの思考は、普通の思考というよりも、ベルグソンの純粋知覚のように、イマージュの総体と接する接点のようなものかと、捉えている。この思考により、人間は、個別の個体としてありながら、宇宙との接点を持つことができる。

カントは、デカルトの主客分離を発展させて、対象そのものを「物自体」、物自体の一部を時間・空間とカテゴリーに変換し、「現象」として理解する。その理解する能力を「感覚」、「悟性(知性)」、「理性」とした。しかし、カントは、対象そのものを理解することはできないとした。クレ・マルタンは、『ドゥルーズ/変奏』の中で、カントは、自分という悟性の王国に、壁を立てて、物自体という荒れ狂い、たけ狂う世界に立ち向かう事を戒めている。

それがカントの超越論的哲学であるが、この荒れ狂う物自体の中に挑む、それがドゥルーズの「超越論的経験論」であり、『哲学とは何か』できない言われている、カオスに向かう芸術家の姿でもあると解している。それがベルグソンの『物質と記憶』、『創造的進化』でのテーマであるという視点の中で、今読み進めているのであるが。

ベルグソンのミステリアスは、ウィリアム・ジェームスから進められて書いた『道徳と宗教の二源泉』であるが、おそらく、全てはイマージュの総体とする視点から、ベルグソンは、ドゥルーズの言う超越論的経験論の領野に向かうロードマップをデッサンているように思うが。

ベルグソンの考え方は、アンドロメダ星雲に、もう一人の自分がいると言った『死靈』の埴谷雄高の世界とも相通じると思うのが、それらの探索にまで到達できていない。

◇2 学習は意識の拡張、クオリアの獲得

クオリアについては、全てロボマインドから学んだ概念だ。下記の1で書いたように、昔は、イマイチ村上春樹の小説が、わあすごいと、更にすごいと感じられるようになった背景には、一つの原因として、自分の周辺知識が増える事で、村上春樹の小説に対して、「おなじみさん」じゃないけど、読みながら、吸い付いて来るような親和性の受容器が、すなわち、村上春樹の小説を読みうる私なりのクオリアが獲得されたのだと思う。それより、彼の小説を追っかけ、自分なりに楽しめる事が出来るようになった、あくまで、「個人的な体験」ではあるが。

表題の学習するは、下記にも書いたように、ピーターゼンゲの『学習する組織』の概念であるが。

◆1 なぜ村上春樹の小説が面白いのか?

村上春樹氏の小説は、一年前位に、『ねじまき鳥クロニクル』を読んだ。とても良い小説だと思った。今年、『海辺のカフカ』を読んだ。更に良いと感じた。今『1Q84』を読んでいるが、次半分どうなるの、次はという読み方の気持ちになっている。

別々の設定から交互にものがたりが展開されるのは、『世界の終わりとワンダーランド』からだと思うが。ロボマインドで、クオリアという概念に親しんでいるが、最初に読んだ村上春樹の小説では、十分に、村上春樹というクオリアを獲得していなかったからだと思う。

ロボマインドでは、クオリアを認識の拡張の捉え方をしている。ピーターゼンゲの概念を借りれば、「学習する組織」、あるいは、個人のレヴェルなので、学習する個人、と称しても良い。

なぜ、村上春樹の小説が面白いのか。それは、村上春樹の小説に対して、「親和性」、ある中で言えば「耐性」、ロボマインドで言えば、「クオリア」を獲得したためである、と暫定しよう。あるいは『自由の哲学』のシュータイナーにおける「思考の世界」を獲得したからだと思う。「親和性」、「耐性」、「クオリア」は、ワタシテキには、共に同義的に変換可能な概念である。