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途中ながら、結合、イノベ、等級

1. 等級asの驚き

特に思いもないが、一生英文法という本に拘り続けてるが、少し前は、等級、つまりas、asを再読。ポールよりは背が高い。thanが入る。しかし、私があれと感じたのは、asは等級という事実だ。asの後ろにくる単語は、asの前にある単語と等級、いわば同じだということだ。どうでも良いことだが、ロカンタン氏(サルトルの小説『嘔吐』の主人公)がマロニエの樹木を見ながら、存在の偶然性を感じた、普通のマロニエの樹木が、猥雑な塊に見えて、マロニエという意味がなくなってしまうのだ。まあ、意味やら大事な意義が見失われる。見失うでもないな。

2. 従位接続詞、例えばthat、which

and 、butなどの、私は言った。そして、私は去った、などのand でつなぐ等位接続詞ではない。『意識のスペクトルラム』だかの英文を遅々として読んでると、入れ子構造のthatが一つではなく、いくつか出てきて、その間のitがどのitか分からなくなる。従位接続詞は、文章が長くなる。『失われた時を求めて』だな。

つまり、thatやらの従属接続詞は、文と文を入れ小型に、文の中に文を入れ込めることが可能になる。更に、文と文を連結することだができる。連結飲んでいる原理としてのドゥルーズ視点でのヒューム『人性論』の冒頭部分であろうか。アダム・スミスとも面識があったというが。

接続詞は、癒着させるのかな。親和性という言葉がある。ゲーテの『親和力』。読んでみないとな。ウェルテルと、ヘルマンというドロテーアは読書力が身につかない時期に読んだが、親和力はまだだ。しかし、この親和力、親和性という、私に取っての概念は、力強い。

3. 連結、癒着を促す親和性

ならば、くっつくという時、ドゥルーズ・ガタリの『アンチ・オイディプス』が浮かぶ。なんでも連結することが書かれていて、「それ」、無意識ということだろうが、あるいは、よく分からないけ事に直面したときに人が呟く「DNA」。まあカントが悟性の王国で境界の線を引いた、意識と無意識の境界、boundaryじゃないのか。境界を敷く事は、しかし悪いことじゃない。セルフ(自己)を感じるにはエゴ(自我)が必要だし、ユングのおはごだ。
(ここで企業の利益と社会の利益はリンケージするという、企業会計、企業価値からのアプローチがある。国際統合報告書団体・IRRCが記したフレームワークだ。同団体は国際会計基準団体に吸収されているようだが)。

けど、サルトルが「自我の超越」という時が、やっぱフッサールの志向性なのかね、あの頃は、1930年に代には、意識は外へと向かっていたのかね。

連結という場合は、違う要素同士を結びつける、入れ小型の従位接続詞やらのように、あるいは副詞やらのように、ニューロンのように結びつけ合う。心理的安全性、the fearless organizationという表題で言われているのも、そうだろう。心理的安全性があるとなると、共有できる。結びつけ合うことができる。この結びつけ合う、というのがイノベーションと言われている。ということは、親和性、心理的安全性、共有は、同義的な概念と言いうるだろう。

4. 異なる知識を結びつけるイノベーション

親和性、心理的安全性、共有という概念の中で、問われているのは、知識を結びつ、新たな創発を生むということである。文字通り、イノベーションということになる。

そうこうしているうちに、些末なジャーナルな記事に目がとまった。イノベーションから逸脱して、別のサイトに書くのも良いが、気分やらない思考がちりじりになりながらも、イノベーションという項目にこだわる。

些末な一つは、ある企業の買収を巡る問題だ。文学日本憧れる私としては、買収やら企業を巡る組織のことは無知に等しく、経済系日刊新聞で知る知るしかないのであるが。

5. イノベーション巡る2課題に直面して

2課題の一つは、ある企業を巡る買収防衛策やらの議論だ。もう一つは、ある国家同士の戦闘を巡るウソの応酬だ。