極楽論

中沢伸一氏の『チベットのモーツァルト』(講談社文庫)にある、吉本隆明のコメとをはじめ、著者の執筆中に異様に興奮したとの言葉に引かれて、「極楽論」から読み出した

以前、表題と同じ「チベットのモーツァルト」は読んだ事があるが、ジュリア・クリステヴァの記号論やら難しい議論について行けなかった。一方で、魅力ある議論はしているなあ、と思った。

ここでで地獄は、凝固・固定化してしまうのだ。神経症の症状と同じであるが、ドゥルーズ=ガタリは、精神病的な、生成を生み出す、分子的な多様性と見なすかも知れない(狼の話、千のプラトー)。

「煉獄の火をくぐりぬけることによって、ダンテというシニフィアンは重苦しい粘性の沼地を抜け出た身軽さを身につけ、同一性の想像的幻影にしばられた差異なき反復からだ、語の多義性を生みだす象徴的なものの差異化の方にむけてあゆんでゆくのである」