死について~トルストイ『イワン・イリイチの死』を読んで(4)

明日死んでも悔いはありません! わたくしは毎日を充実させ、燃焼しきっているからであります!! 

という人が多くってヘキエキしている、というおれみたいな人間にとって、イワン・イリイチの姿勢というのはすごくしっくりきた。ああいうのは『情熱大陸』とかに出てるそういうコメントする人に、ふつうの人が感化されきってるからじゃないかと思うんだが、どうかしら。なかなか普通の生活しててそうは思えなくないですかね。

死を意識しはじめたイワン・イリイチは、こう思う。

彼の仕事も、生活設計も、(中略)――すべて偽物かもしれない。彼はそう思う自分に対して、それらすべてのことを弁護しようとしてみた。すると不意に、自分の弁護がいかにも根拠薄弱だと感じられてきた。そもそも弁護すべきものが何もないのだった。
(中略)
「私は自分に与えられたものをすべて台無しにしてしまって、もはや取り返しがつかない、ということを自覚しながらこの世を去ることになる。その時はいったいどうなるのだろうか?」

そうなんだよね、おそらくおれくらいの年齢(イワン・イリイチは45歳で亡くなる)で死を覚悟すべき状態になったら多くの人はそう思うんじゃないかしら。「人生」はこんなものでいいはずがない、こんな終わり方をすべきものではない。しかし一方で、もっと長生きすれば「偽物」ではない人生をこの手にふたたび奪還できるかというと、それも無理だろうという気がする。ひょっとしたらこういう「偽物かも」という感じ方じたい「若い」ってことかもしれない。死の覚悟を、もう少し後で(七十、八十代で)する人の場合は、諦念みたいなものが現れるんだろうか。

自分は人生を台無しにしたまま死ぬのだ、と思いはじめたイワン・イリイチだが、一方で幼年時代には何かしら「本物」めいたものがあったのでは、とも考える。これはすごく興味深かった。

幼年期には確かに、もしも取り戻せるならばもう一度味わってみたいような、なにか本当に楽しいものがあった。
こうして幼年期を遠ざかって現在に近づけば近づくほどますます、歓びだったことがつまらぬ胡散臭いものへと変貌した。

この他にも数多く「幼年期礼賛」が小説中で語られる。確かに人にとって本質的なことは幼年期に凝縮されているかれもしれない。

母と最後に会ったときの話は前にも書いたが、そのときも、話題はおれが小さい頃の話だった。

おれが同じ立場になっても同じかなと思う。

①自分の幼年時代
②自分の子どもの幼年時代

この二つが、人生のハイライト的に頭に憑りつくんじゃないかと思う。例えば人は認知症になったとしてもこの二つの時期がそっくり抜けることはないんじゃないか。

こう考えてみると意外なのが、この局面では、

「思春期の思い出は結構どうでもいい(かもしれない)」

ということだ。まじか、思春期だぜ。あの輝かしい思春期。

単純に思春期のことを思い出すのはエネルギーがいるから、死を意識する段階では体力的、精神的にきつい、ということもあるかもしれない。しかし、人生が「偽物」になる萌芽がこの時期なのだからではないか、という気もする。いや、こういう感じ方はナイーブ(悪い意味で)すぎてよくないな、とも思うが。

死について、ここまで5000字くらい書いてきた。働き盛りと言われる年代の人間のやることじゃない。そろそろ筆をおこうと(この表現の現代バージョンってどう言えばいいんでしょうね。「ウィンドウを閉じる」?)思う。イワン・イリイチはこの後、死を迎える。臨終の描写が、立花隆の追悼で再放送していたNHKスペシャル(最新の脳科学で臨死体験に迫る、的な番組)の内容と驚くほど符合して、作家の想像力というのはすげえなと思ったが、さすがに臨終まぎわのことは色々よくわからない。死というのはやはりよくわからない。

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