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門田隆将著、死の淵を見た男、を読んだ

西暦2011年3月11日、誰もが忘れないであろうその日、私は埼玉県和光市にある某政府系研修機関に、研修生として長期滞在中の身であった。

地震発生当時私は、約24名の班員とともに教室でゼミを行っていた。非常に長い時間横揺れを感じていたが、指導教員は、揺れが収まった後も、どうしていいか分からない様子であったように記憶している。他班が非難し始めるのに続いてグラウンドに避難し、研修所スタッフの指示に従い整列し、ひとまず安堵していたところ、津波発生の事実を知る。

被災地出身の研修生はそれぞれ、家族などと連絡を取り、安否を確認していた。その間に研修所スタッフが、毛布や非難グッズが詰め込まれたリュックなどを満載した、大きな台車を次々に運び込んでいた。

余震が繰り返し起こり、その度にあちこちのポールや、アンテナが揺れいているのが確認できた。感じたのは主に強い横揺れ。

その後、自室に戻った私は、一晩中テレビを点けていた。携帯から鳴る地震速報は「狼少年」と化していたが、速報とはタイミングを異にしているものの、実際に起こる余震を感じながら、繰り返し流される津波の映像を見ていた。

繰り返し流される津波の映像を、一晩中見ていた。

以前松江市に居住していたことがあり、島根原発3号機の建設現場を見学したことがあったことを思い出した。自信満々で説明するスタッフは「原子炉はミサイルや航空機が突っ込んでも壊れません」と言っていた。

同じ班に、福島第一原発の近くに実家があるという研修生がいた。原発の爆発を大変心配しており、不安でしょうがないと言う。

今ではそんな軽い言葉を口にしたのを後悔している。

大丈夫、原発は爆発しない。

実際には、原子炉が爆発したわけでないが、当事者意識を持たないまま安易な言葉を掛けたことを未だに後悔している。建屋とはいえ、爆発の映像が流れてくるとは思っても見なかったからだ。

当時、現場で何が起きていたのか。何が真実かはわからないが、あの時、実際に作業に当たった人たちがいて、その人たちがいたから今の我々がいるのは間違いない事実だと思っている。甚大な被害ではあったが、彼らがいたからこれ以上の被害に至らなかったのもまた、間違いない事実だと思っている。

未だ続く廃炉への道のりは長い。しかし必ずやり遂げられると信じています。


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