眉に唾をつけろ!

はじめに

 誰しも「この言葉が出たら眉に唾をつけて聞く」という言葉があると思う。僕も特定の言葉や論法を検出したら疑惑の目ギラッギラで聞くようになる。この記事ではそれらを列挙していこうと思う。他人が使う胡散臭い論法には敏感になりたいし、自分が誰かを説得する時には使わないようにしたい。言語化して列挙することはその助けになるはずだ。

本当のOO論法

 これはもう、ね。説明もいらないだろう。「本当の」貧困、「本当の」努力、「本当の」友だち、「本当の」恋愛、「本当の」弱者……全部胡散臭い。「本当の」って言うだけで言葉の意味を変えられるんだから便利なものだ。誰かが「本当のOOは」って言ったらそれは「何がOOに値するかは僕だけが決めたい」と読み替えようね。

信じたい論法・愛したい論法

 誰かを信じること、愛することはしたければすればいいと思う。気を付けたいのは相手自身に信じ「たい」愛し「たい」などと言ってしまうこと。「勝手にやれ、黙ってやれ」と僕は言いたい。信じるとか愛するとかは自分の心の中ですることだと思う。
 ことに信じたい「のに」・愛したい「のに」ときたらもう最悪。この後に続くのはだいたい相手のせいでそうできない、みたいなことで。それは信じたいとか愛したいとかじゃなくて「支配させてほしい」という意味だ。
 信頼や愛情を質に取るのは相手を支配するための頻出にして強力な手段だ。無意識にやってしまうこともある。これはマジで気を付けないといけない。やらない方がいいし、こんなのされたら鼻で笑えるようになりたいところだ。

「プリンを食べられちゃった話」

 一時期これはツイッターで流行った。自分の機嫌は自分でとれという論に対して「勝手に自分のプリンを食べられちゃったなら、自分でプリンをもう一度買うのではなくプリンを盗むなと言うべきだろ」みたいな話。要はアナロジーで論を進めること。
 僕はアナロジーをあまり信用していない。なぜなら違う話だから。適切にアナロジーを用いるにはアナロジーと本題の間に存在する類似点が本質的であって、全部を台無しにするような違いがないと示すことが必要だ。百歩譲ってそれを省くにしても「飛躍するけど信じてください」と断っておくことが必要だ。この手続きを踏まずに軽々しくアナロジーを使う例をよくみるが、そういう時僕は眉に唾をつける。
 プリンの話で言えば、誰が責任を負うべきかということは誰か一人に還元できないのがよくあるケースだし、誰に責任があるかを検討するには考えるべき条件がいくつもあるはずだ。それを、想像しやすい話で丸め込んでしまうのはよくない。
 わかりやすい違う話に逃げないでほしい。複雑な問題において他者を説得するなんて難しいに決まっているんだから、難しいと思って腰をすえてやらないとね。

定義してくる・させてくる

 「議論をするためにまず定義しよう」というのは常に間違っているわけではないと思う。しかし、定義すべきでない、あるいはできないのにしている例を僕はよくみる。だから僕は定義と聞いただけでいったん眉に唾をつける。杞憂であることも多いけど。
 定義するというのは、自然科学を筆頭にして定量的な議論を行う際には必須だと思う。定義できていないけど量は存在するなんていうのはナンセンスに聞こえる。だから、定義は場合によって必要だし議論を前に進める強力なツールにはなる。
 とはいえ、定義はかなりデリケートなものだと知っておくべきだ。定義したからには、その議論の中で断りなく異なる用法をすればそれだけで問題だということになる。言葉をそういう風に縛るのはある種の権力だ。僕は権力だからただちに悪いという立場に立っていないが、それでも「定義をしたなら権力が生じる」とは認識しておくべきだろう。
 SNS で与太話をしている時に「定義」なんて大それたものはなじまないことの方が多いのではないか。突然何かを定義しようとするのはその会話のキーワードの意味について権力を握りたいという意思表示だ。あるいは定義をさせたり一緒に導こうとしたりするのはその場に権力を生じさせてでもするべき議論を真面目にしようという表明だ。そのつもりでやっているなら僕は何も言わないけど、カジュアルに隙あらば定義と言ってしまうのはちょっと、眉に唾をつけてよかったなと思ってしまう。
 むしろ SNS でよくみるざっくり系のお話で必要なのは語釈のすり合わせだと思う。自分はこの言葉をこういう意味で使いがちだ。あなたはそういう意味で使いがちだ。どちらが正しいとこの場で決めはしないけど、ともかく相手がそういう用法をしていることをお互い理解して話そうね、と。これは定義とは全く違うことだと思う。

関係ない話をし続けて雰囲気だけ作る

 特にシビアなやりとりをする時にありがちで、これは本当によくないと思う。定めた論点で出た結論を覆したいから、別の話を始めてそこで食い下がれないかと試みるやつ。眉に唾をつけるどころか、これが始まったら話を打ち切った方がいい。
 もとの論点について出た結論はそんなことをしても変わらないはずなのに、たとえもとの論点で片方の圧勝だとしてもなんだか全体として少なくとも五分五分みたいな雰囲気になったりする。
 聴衆がいる議論であれば、聴衆が雰囲気に惑わされないことを信用しましょう、という話だと思う。いちばん恐ろしいのは聴衆のいない議論、つまり自問自答でこれをやってしまう時だ。僕はたまにやってしまうことがある。
 自問自答でこれをやってしまうと最悪だ。自分の頭の中だから雰囲気で自分にだまされてしまうし、本来考えたかった論点については考えがあまり深まらない。違う話を考えているんだからそれはそうだ。困る。たとえば、自分なんてどうしようもない人間で~みたいな雰囲気を頭の中で作って自分が自分に騙されたりする。そういう時の自分を信じない方がいいし、やっぱり考えを打ち切ってしまった方がまだよい。

単純化

 説明いらないと思う。世の中は単純ではないので「これをすれば解決」とか「あいつらが悪者でそれをなんとかすればうまくいく」とか言われたらもちろん眉に唾をつけた方がいい。
 ただし、「単純化をする人は愚かだからそういうことをしているんだ、しょうもない人だ」という主張も単純化というか、安易な決めつけだと僕は思っている。単純には語れないと理解した上であえてやっている可能性はある。人間はそれくらい複雑な生き物だ。相手には単純化した議論をすることによって実現したい意図や表現したい内容があるのかもしれないと勘繰るくらいがいい。あざ笑うのではなくて、眉に唾をつけて聞くのがいいよ。

過度で無意味な複雑化・精緻化

 単純化を問題視したけど、複雑に精緻にとらえようとすればするほどよいということでもない。物事の複雑さを強調し、精緻に捉えなければ発言してはならないと述べて人を黙らせる手法もある。あるいは、自分が黙っている言い訳に使うこともできる。
 アナロジーを使うので眉に唾をつけながら聞いてほしいが、人が放り投げたボールの着地点を議論するのにボールを構成する分子一つ一つに着目するのは無駄だ。このアナロジーは実際、無意味な複雑化の理解を助ける一例として機能していると思う。あらゆる複雑化は無意味だと説得するためのアナロジーではないので許してほしい。無意味な複雑化なのかを実際に判断するには、個別の具体例ごとに丁寧に判断するのがいいと思う。
 物事を述べるには目的に合わせて適切な解像度というものがある。そこからもう少し細かく見た方がいいんじゃないかとか、そういう議論は実のあるものだ。しかし適切な解像度を度外視した話を持ち出して「難しいから何も言えない」なんて言い出すのはほぼほぼ詭弁と言ってよかろう。

おわりに

 こういうのは言い出したらきりがないけど、騙されないために、また意図せず騙さないために、言語化したものをストックしてはおきたいなと思う。眉に唾をつけよう!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?