罵られるのが好き

 別にえっちな話ではないんだけど。僕は、特定の条件では人から悪く言われるのが好きだ。「性格が悪い」とか「今、かっこつけたよな」とか「愚かだ」とか「怠惰だ」とか「浅はかだ」とか「服ダサいよな」とか。まぁ内容は何でもいい。当たってても当たってなくてもいい。

 重要なのは誰に言われるかだ。僕が嬉しいのは、言ってきた相手が僕のことをそこそこ好きだと思われ、僕の方でも相手にかなり気を許している時だけだ。これはたとえば家族とか恋人とか親友とかだと思う。恩師とかももしかしたらそうなのかもしれない。
 誰に言われるかが大事なのは、誰が言うかで僕に伝わる意味が変わってくるからだろうと思う。前述のような親しい間柄では、そうした欠点も知ったうえで一緒にいることを選んでいるんだよという優しい言葉が省略されているように聞こえる。僕が喜んでいるのは罵られていること自体じゃなくて、省略された優しい言葉に滲む愛情なのかもしれない。ストレートに伝えるよりもお洒落だから、たまにあるとめっちゃ嬉しいやつだ。
 そういう省略こみの悪口が出る時には照れが混じったような苦笑だったり、心底愉快そうな感じや無条件のいたわりが表情や声にあらわれる。だから聞くだけでしっかりわかる。そういう点では別に誰が言おうが変わらない気がしてきた。愛情のある感じだったら嬉しいし、でなければ嫌だというだけの話だな。

 しかし、誰に言われるかが大事な理由はもう一つあることに気づいた。そしてこれが本質的だ。愛情のある感じかどうかは聞けば誰が言おうが伝わるが、僕が気を許してない人からそういうのを向けられても困惑したり負いきれなかったりして嫌なんだろう。
 なにしろ、相手の悪いところや大衆受けしないところを面白がりながら受け入れるとか、ストレートに愛情表現せずに欠点を指摘することで好意を言外に匂わせるとかは、お洒落ではあるけどいわゆるクソデカ感情というやつだ。かなり重い。
 僕が気を許していたり心から尊敬していたりするわけではない人から一方的にクソデカ感情を向けられるのは、まぁきつい。胃もたれしてしまう。ついでに言うとあまりに関係の浅い人からだと「僕の何を知ってるんだよ」的な思いも浮かんでしまう。だから結局誰に罵られるかが大事だという話になってしまうかも。
 人によって言われたら嬉しかったり嫌だったりするなんて都合のいい話ではあると思う。でも好き嫌いの感情のレベルではどうしようもなくあってしまうんだな、と気づいた。せめてそういうのを出すのはめっちゃプライベートな時だけにしたいものだと思う。誰から言われても内容に愛情があれば喜べるようになれたら、それはそれでいいのかもしれない。わかんないけど、向けられるクソデカ感情よりも僕が大きければ平気で喜べたりもするんだろうか。もっと大きくなりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?