ロマンティックラブイデオロギーに脳みそを支配された顛末

愛を尊いと思うからいけないのでしょうか。

愛は本来、傷をつけるものだったのかもしれません。傷によって湧き上がる痛みや哀れみをすくい取って、我々は愛と呼ぶのかもしれません。そうでなければどうして、この純粋な気持ちが、こんなにも酷く私に沁み、頭から離れることがないのかわかりません。

愛あれば、と人は謳います。それは極めて美しく、儚く、果てなき未来へ向かって投げ出される文句で御座います。私もそう信じていました。愛あれば、人を救い、人を生かし、そしてまた自分も、愛によってこそ生きながらえると。
しかし現実はこのザマです。愛が愛のまま受け取られ、方向を一致させていることのいかに少ないことか。純粋な愛は、無邪気な子供のように攻撃性を孕んだものだったのです。誰が信じましょうか、ありのままの愛が、愛しのあなたにとってはただの無理解の塊に映っていたなんて!ただ愛を信じてやまないばかりに、私は大切なあなたを見落としていたのですね。そんな自分の我儘さを恥ずかしく、未熟だと諌め加害性を認めつつも、それでもなお愛というものへの憧れがあるので御座います。

自分を信じる、などという実直さにほだされていたために、私がまだ愛を過信していた頃、君が幸せになるための唯一の方法は諦めることだと言われました。完全な相互理解などは到底無理だ、君のことはわからない、そういうことでした。私は信じたくありませんでした。生きることの信条だったからです。人に限らず、何かを愛し、許すこと、許せるものの範囲を広げていくことで、自分は生きやすくなるのではないかと信じていたからです。もちろんこの世の誰にもそう求めるという話ではなく、あくまで私という小さな世界がせめてもの綺麗事でまとまって生き延びるには、そうしなければやっていられないと思っていました。愛というものがある実感にだけ愛着を覚えていたからです。これは必ず良いものだと、信じて疑いませんでした。諦めろと言われて、自分は人を愛してはいけないんだと思いました。思い返せば、私の持っていた愛なんて狂気のようなものばかりです。本当に、人に迷惑をかける、加害性のあるものでした。しばらくの間、私はそれは自分自身が問題ある人間だからだと結論づけました。私が歪んだ人間だから、愛という理想に私は不可侵で、歪めてしまうのだと思いました。この思い自体は、今でもふとそう思うことがあるほど、実に説得力があります。私が良い人間であったなら、もっと上手に愛することができたのにと、自分を不甲斐なく思いました。
こんなにも愛は尊いものなのに、私は永遠に理想に近づけない、近づく資格がないと思っていました。

ですが、この悲しい気持ちは、もっと普遍的なものであるのかもしれないと、そうも思うようになりました。私と同じように、純粋なままの愛したい気持ちや、愛されたいという気持ちを信じている人がいて、そして軒並みうまくいかないように見えました。そこで生まれた発想の転換がこうです。愛が尊いという前提を見直すことにしたのです。愛は、そのまま持っていても誰かに受け止めてもらえるような代物ではないのです、愛するということは、そもそも誰かを傷つけるということなのです。それらが存在するということの全てを包み込むには、それらが相当丸みを帯びてでもいない限り、刺す行為であり刺される行為なのです。そう考えれば、ただありのままに愛されようとしたり、愛そうとしたりする行為が100%好意的に受け止めてもらえるわけではない現実にも説明がつきます。愛の本質がそういったグロテスクなものだとして、愛し合うということはそれを認め合うというさらに上級なグロなのではないでしょうか。ただ漠然と愛を抱くことが良いことだと勘違いして、愛を投げ合ってしまうから余計に傷ついてしまうのではないでしょうか。愛し合うことが、互いに傷を負うことを許せる者たちにのみ可能な行為なのかもしれません。そうなのだとしたら、愛するためには相応の覚悟が必要になりますね。きっと、そうなのでしょう。

悲しいことに私は依然として根拠のない愛を信仰してしまう節があります。でも、愛が痛みを伴うものにせよ、お姫様思考が悲劇のヒロイン思考に変わっただけであまり代わり映えありませんね。誰かを傷つける覚悟を持てるだけ、マシなことでしょうか。

ただ、自分は愛を持っているという過大な自信で誰かを傷つけていたことに、後になってやっとわかって後悔するということが、皆さんにないといいですね。

最後に注記ですが、この仮定でのお話は、もっとライトな好意とかだと成り立たないなぁという風に感じるのも、本当のところです。ですが私自身、ライトな気持ちにあまり馴染みがなく、そういった気持ちを当てはめて考えるということができませんでした。お友達とか、良い知り合いに向けるライトな気持ちは、傷を負うものでしょうか?そうやって傷の深さで考えようとしているところが、愛に対する信仰のベクトルが変わっただけで本質全く変われてなんかいないということの、いい証拠なのですかね。わかりません。要・再考といったところです。

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