思い思われ

好きな人に人生を動かされ続けている、と少し前のnoteに書いた気がする。実際にそう感じている。過去の恋人にしても、推しにしても。じゃあ恋人(もしくはそういう意味での好きな人)と推しの違いって何?って思ったから書いとく。

私にとっての“推し”は、一方的に愛したい人のことをいう。平たくいうと、愛しあいたくない人のこと。逆に、恋人になりたい人(そういう意味での好きな人)は愛してほしいからこそ成立する。

なぜ愛しあいたくないのか。いちばんは恐れ多いから。特に、まずお金を払わないと会えない人達はこれに該当する。そういう人達が私のことを好きと言ってくれたらどうだろう?多分、嬉しさよりも先に申し訳なさが勝ってしまう。私なんかを好きでいてくださるなんてすいません、と。まずありえないことだけど。

好意を返すことができないから、という理由もあったりする。それは、推しに何かを与えるという上から目線な行為が失礼すぎるというもあるけど、好意を受けた以上はそれを上回ったかたちで返さなければいけないから、というのが大きい。自分のポリシーみたいなもの。でも、好意の返報性って言葉もあるぐらいで、こっちが好意を持てば多少は返ってくるものだ(経験談)。

もし相手が私と同じような考えの持ち主で、受け取った好意を上回るレベルで返してきたら…間違いなく幻滅してしまう。蛙化現象みたいな。そう思うと両想いは難しい。恐れ多いという気持ちや、好意をたくさん返さなければいけないという義務感でさえも超えて、愛し愛されたいと思わないとできない。

とても自分勝手だとは思っている。一方的に愛させてほしいだなんて、なんて身勝手で我儘で曖昧な愛だろう。そんな都合のいい“好き”に、ずっと生かされ続けるのだと思う。

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