大失敗をやらかすロボットがいたとして
小説なり漫画なりのプロットを書いていたとする。
「大失敗をやらかすロボット」がいたとして
それはどんなロボットが、どんな失敗をすればいいんだろう。
これは時代とロボットというテクノロジーに何を期待しているかに依存する。
昭和の頃のロボットSFにおけるロボットの失敗とは「やりすぎ」ではないだろうか。石の森翔太郎原作「がんばれロボコン」しかり、鳥山明「Dr.スランプ」のアラレちゃんしかり、やりすぎ感とパワーがセットになる大失敗が、ロボットSFギャグの基本であった。
平成になると、ゆうきまさみ「究極超人あ〜る」のような「間抜けさ」に「無力さ」を加えたキャラクターデザインが増えてくる。もちろん勇者シリーズのような超生命体も、ガンダムのような操作型も、エヴァのような生命と操作型のハイブリッドも、アスラーダのようなパートナーロボットも、マスコット型も大量に出てくるのであるが、「その失敗」というものは、往々にして「やりすぎ」が基本設計にあるのではないか。
令和の生成AIにおける「大失敗」において「やりすぎ」は該当しないのではないかとなんとなく感じる。そもそも創作のプロットなので正解はないが、ロボットが「多少のやりすぎ」をしたとしても「そんなもんだろ」とか「大失敗ではなく小失敗」もしくは「そもそもどんな調教をしたんだい」という話にしかならない、という視点だ(異論もあるだろうし認める)。
それぐらい機械学習と推論AIはパワフルだ。長年愛されてきたSFの世界すらも歪めてしまった。
では何が「大失敗」になり得るのか。
それは「記憶」だと考える。
記憶の持ち方こそが今後の生成AI時代におけるフィクション/ノンフィクションの「面白い大失敗」に繋がる要素なのではないか。
いろいろ思考実験をしてみよう。
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