おじいちゃんの足を探したかった 1

 大正の初めのほうに産まれた祖父は、私が物心ついた頃から片足がなく、松葉杖を使って移動していた。それで散歩もしていたし、車も運転していたし、(AT限定の免許の制度が始まる前からAT限定だった)片足がないというだけでごく普通の暮らしをしているごく普通のド田舎のおじいちゃんだった。

中国に戦争に行って、機関銃で撃たれて足をなくしたそうだ。

いわゆる「傷痍軍人」というもの。何年か前に傷痍軍人でつくる日本傷痍軍人会という組織(祖父も地元の会に所属していた)も会員の高齢化で解散したそうで、若い人にはもう全く馴染みのない言葉かもしれない。負傷したため日本に戻って、結婚して、戦後は今ほど福祉も充実していなく、障がい者なので一家がまともに食べていく収入を得られる職もなく、とてもとても苦労したという話は祖母から何度も聞かされた。

子ども心にはあの時代はみんな大変そうだけど、うちも相当大変だったんだなあ、というそのまんま「小並感」的な感想しかなかったが、だんだんと世の中のことがわかってくるにつれ、子どもなりに気づくこともあった。

祖父からは出征先での、ちょっとしたほのぼのストーリーしか聞いたことがなく、最前線で敵の機関銃に撃たれたやら、薬が無かったので麻酔無しで足を切断したやら、そういうリアルで辛い話は祖母や親戚からしか聞いてない。祖父以外の人間から断片的に聞いた話を総合すると、祖父の食べ物の好き嫌いも戦争が原因だったと思うし、孫の私にとっては好々爺だったが相当なトラウマも抱えていたのだと思う。

そして、上にちょっと書いた地元の「傷痍軍人会」で、持ち回りでやるような役員をやってたりしていたんだけど、私の知る限り、ほとんどの人が祖父よりずっと年下で、「傷痍軍人会の○○さん」の話は聞いても「戦友」みたいな人の話は全然聞いたことがない。当時はきっと全国からちょっとずつ集められた兵隊さんたちで、祖父の戦友も、どこか遠い県にでも住んでいるんだろう、と思っていた。

私は進学先の関係で一時期祖父母と一緒に暮らしていたことがあった。その時に見かけたのだったかもう忘れてしまったけど、地元の傷痍軍人や元兵士の手記をまとめた本が家にあった。1人1ページずつ戦争当時のエピソードが語られている。祖父のページには「負傷後、帰国。元居た部隊はその後移動中に襲撃に遭い、ほぼ全滅した」というようなことが書いてあった。あの本、どういうわけか、その時たった一度見ただけでその後二度と見かけなかったんだけど祖父に「戦友」がいない理由がわかった。そして、大人になってだいぶたってから、祖父の片足と引き換えに父や私や弟、息子や娘や甥っ子がいるんだと気づいた。そんな片足の代償は祖父にとってはどのぐらいのものだっただろうか。祖父が千の風になってなくて、実家の裏山のお墓の中に居たとしても、もし今も健在で茶の間のテレビの前の定位置に座っていたとしても聞けないな。



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