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ようやく本丸と対面できた……のかな

清須市はるひ美術館で開催されている「栗木義夫 CULTIVATION―耕す彫刻」を見に行ってきた。開催前にチラシを見かけてから絶対見に行こうと決めていたのに、実際に足を運んだのは終了日前日だったという…(あるある)

栗木氏の作品に初めて出会ったのは、忘れもしない、あの「瀬戸現代美術展」(2019年)だった。その時の展示はちょっと変わっていて、基本的に一人の作家に一部屋のスペースが割り振られていた。栗木氏の場合は、部屋全体がアトリエのようになっていて、ドローイングや作品になる前の小物たちがあちこちに置かれており、他の部屋とはずいぶん違う印象をうけた。作品タイトルはなんと黄色の付箋に鉛筆で走り書きされていて、いかにも製作途中な雰囲気だ。その時は何の予備知識もないので、てっきりインスタレーションをメインで制作する現代作家と思いこんで本業が彫刻家だとは想像だにせず、こともあろうにまだ若い作家さんだとさえ思っていた(実際は1950年生まれです)。

瀬戸現代美術展2019にて、栗木義夫氏の部屋

次の出会いは瀬戸現代美術展2022のプレ展示と本番の両方。プレの方では小学生対象にワークショップを行っていた。面白いなと思ったが、このときもまだ、栗木氏が美術予備校で長年講師を勤めていらしたとはつゆ知らず、ただただ巨大な鉄の作品に驚いて帰ってきたのだった。

瀬戸現代美術展2022プレ展示での様子
手前の作品も奥の作品も今回の「CULTIVATION」に出展されている

瀬戸現代美術展2022の本番では、さまざまなオブジェを低めの台にのせた《encounter 45 with barrak.》が好きだった。オブジェの周りにはドローイング作品が飾られており、絵画と立体作品の両方を手掛ける作家なのだとようやく気づいた。が、よもや彫刻がご専門だとは…(以下略)

瀬戸現代美術展2022に出展の《encounter 45 with barrak.》
《encounter 45 with barrak.》を別アングルで。
同じ室内に絵画も展示されており、二刀流なのかと思った次第。

そして今回の「CULTIVATION」でようやく栗木氏の正体を知るにいたったという、不勉強にも程があるという事態が発覚したのだった。

CULTIVATIONの一番シンプルな日本語訳は「耕作」。対象を人間に転用した使い方もあり、その場合は「修練」「洗練」。栗木氏の場合はメインの技法である鉄の溶接をこれに例えて「鉄を耕す」、創作態度として「創るとは何か」を考えて内面を耕す意味があるようだ。

《OPERATION》1989年
《OPERATION》1989年
※上記の鉄製オブジェの内側を和紙で型取りしたもの

今回の展示では、以前にお目にかかった大きな鉄製の作品《OPERATION》があり、当時は「?」だった浮き彫りのように見えるラインが実は溶接で作られたものだと知り、少しだけ謎が解けた。さらに鉄の作品を紙で型取りした作品も展示されており、「ものがそこにある」という事実とその影を差し出されているような感覚を強く受けた。

《Untitled》2006-2023年

また、展示室1をまるごと使ったインスタレーション作品では、やはり低めの台に陶器と鉄でできたさまざまなオブジェが配置され、《encounter 45 with barrak.》をさらにブラッシュアップしたような作品となっていた。壁面には二種類のドローイング群が整然と展示されていたが、ドローイング自体は丸みを帯びた力強いラインで描かれたものが多く、どこかで見たような形でありながら何物でもないという奇妙な懐かしさを感じる物体が描かれていて、それが立体化したのが、台に乗せられたさまざまなオブジェになったのかと思わせる。

《Untitled》1979-2023年 より
ドローイングのコーナー
《Untitled》1979-2023年 より
鉄と陶器によるオブジェのコーナー。

オブジェは色と素材に統一感があり、2022年よりも洗練された展示だ。何となくではあるが、昨年6月に瀬戸で「旧山繁商店」を舞台に展開された高北幸矢館長のインスタレーション「落花、瀬戸千年。」のイメージが閃いた。
「落花、瀬戸千年。」では、本物の実用品(だが廃棄される予定)としての白い陶磁器が床一面に並べられていたが、《Untitled》では、実用品ぽい形をしてはいるが何物でもない鉄と陶器でできたオブジェが所狭しと並べられている。実際は関係ないのかもしれないが、あたかも日常使いの品々からイデア的なものを取り出して実体を与えたかのように見えるのが興味深い。

作品を眺めていると、とりとめのない思考の断片が浮かんでは沈んでいく。2次元と3次元を行ったり来たり、というのはつまり、作家の心のなかにある漠然とした形が、ある時はドローイングとなって現れたり、またある時には鉄を溶接するという作業の中で身体の中から手先へと伝わって具現化したり、ということなのだろうか。そこには「表現する」ということの根源があるのだろうか。たとえば、絵描きが線や色彩を使って表現するように、字書きが文字を使って表現するように。それらの作業に共通するのが、漠然とした形のような何かを「掘り起こす」="cultivate"すること言えなくはないだろうか。

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