初体験の「コレクション解析学」
名古屋市美術館では定期的に「コレクション解析学」として、開催中の展覧会に関するテーマで、学芸員による作品解説をしている。先日展覧会を見に行った折に、「特集 はじめまして!新収蔵品です。」というコーナーに立ち寄ったのだが、妙に気になる絵があり、それがたまたま取り上げられるということで興味がわき、出かけてみた。
その絵というのが甲斐庄楠音(かいのしょうただおと)《女の顔》。
うつむき加減の女性を描いた画で、リアルな筆使いで描かれた渋めの表情が印象的。同時代には美人画で有名な上村松園や伊藤小坡がいる。同じ日本画で女性を題材にしながらテイストがまったく違うのに興味をひかれた。ただリアルなだけでなく、美しいとは言い難い表情を取り上げながらも奇妙な引力のある絵だった。
今回の講演タイトルは「穢い絵で、奇麗な絵に勝たねばならん」。かなり煽りの入ったキャッチコピーだが、これは画家本人の言葉。講師は名古屋市美術館の学芸員保崎裕徳氏で、作者の人生はもとより、《女の絵》が描かれた年やモデルを推定する話、同時代の日本画壇の動きを交えた話をみっちり語ってくださった。絵画とはそれ単体で存在価値があるわけでなく、作者や他の絵との関係性の中で価値が決まってゆくことがよくわかった。
さて、甲斐庄楠音とはどんな人なのか?
京都日本画壇の鬼才と呼ばれ(なぜか「天才」ではない)、無類の芝居好きで、しかもコスプレの先駆者(女装好き……というか、女形に扮して芝居の一場面を再現するのが趣味だったとか)。映画の風俗考証にも関わり、溝口健二監督「雨月物語」ではアカデミー賞衣装部門でノミネートされた。
「絵の道に邁進した」というよりは、本当に好きだったのは芝居で、絵は仕事として関わっていた感がある。楠音は生来喘息持ちで勉学に打ち込むには身体が弱く、それで絵の道に進むことになったので、決して嫌いでなかったにせよ、職人的な感覚で絵と向きあっていたのではないかという気がする。
それで、なぜ「穢い絵で……」という言葉が登場したかというと、これは画壇でのイザコザが発端になっている。1918年に土田麦僊ら新進気鋭の画家たちが「国画会創作協会」を立ち上げた。
ちなみに「文展」とはのちに「帝展」を名前を変えたが、当時の日本で最も権威ある官展だった。
事件は、楠音が第5回国展に応募したときにおきた。《女と風船》を出そうとしたところ、土田麦僊により、第5回国展への出品を拒否られたのだ。「あの絵は困ります。穢い絵は会場を穢くします」と。楠音はこの件を相当根に持ったらしく「穢い絵で、奇麗な絵に勝たねばならん」との発言へとつながってゆく。
「穢い」つながりではもう一つエピソードがある。この件に先立ち、楠音は第4回帝展に《青衣の女》を出品した。するとこの絵を見た女学生が「なんて穢い絵」と言って通り過ぎたという。確かに着物は地味だし、クロスした手の置き方もちょっと独特だ。もっとハッキリ言うと、上松松園のような端正な美人画とは、絵の明るさが全然違う。だが面白いことに、同じ時この絵に惚れ込んだ人がいて、それが後に徳川美術館初代館長となる熊澤五六だった。彼は後々楠音の作品を収集することになる。
熊沢は楠音の描く女性の表情に暗き情念を読み取り、非常に魅力を感じていたようだ。運命に翻弄され、業の深い人間を重ねて見ていたという。綺麗なだけではない、複雑な内面まで見て取れる画。情念に重きを置いたと見ればロマン風だし、現実にあり得る表情や姿を描いたと見ればリアリズム風とも言える。これが「穢い絵で、奇麗な絵に勝たねばならん」の意味だったのだろうか。
実は、この事件以降の楠音は「きたない絵」と「きれいな絵」を使い分けるようになってゆく。今回の解説を担当された保崎氏によれば、写実性はもとより、すっきりした色彩、確かな線、理知的な画面の作り方などを見ると、楠音が腕の確かな画家だったことは間違いないという。その気になれば見目麗しい「美人画」はいくらでも描けただろうに、あえて写実性にこだわったあたりがやはり「鬼才」なのだろう。
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