見出し画像

二度読むということ

 初めまして、相澤理(あいざわ・おさむ)と申します。
 予備校・通信制高校などで講師をしております。
 『東大のディープな日本史』(KADOKAWA)の著者と言えば、ご存知の方もいるかもしれません。
 思うところあって、noteを始めることにしました。
 当面は、以前に書いた文章を、自分で振り返る意味も込めて、投稿していきたいと思います。
 どうぞよろしくお願いいたします。

 1959(昭和34)年に初版が刊行され、長きにわたって受験生のバイブル的存在であった、『新釈現代文』(新塔社)という参考書があります。著者の高田瑞穂先生(成城大学名誉教授・故人)は、戦前には府立一中(現・都立日比谷高校)で教鞭をとられ、戦後は近代日本文学研究の第一人者として知られた方です。その道の大家が、未来のある若者に向けて入門書をしたためるという、贅沢にして真っ当な時代でした。
 この本は、2009(平成11)年にちくま学芸文庫から復刊されています。「マズイ、こんな本が受験生に知れ渡ったら、予備校講師が廃業に追い込まれる」と思いつつ読みすすめていき、結びの部分で突き当たったのが次の一節です。

 「最後に一言、この本によって「たった一つのこと」を理解する道もまた、当の「たった一つのこと」によるべきであることを申し添えます。ずいぶん長い「追跡」でしたが、どうぞこの本は、二度読んで下さい。どんな書物もそうですが、二度読んではじめて読んだと言えるのです。」(ちくま学芸文庫版・178ページ)

 高田先生がこの本で教授されている「たった一つのこと」とは、「出発」=書き手の問題意識を共有し、「追跡」=論の展開を追い、「停止」=結論をつかむ、ただそれだけのことです。ですが、その当たり前のことを生徒に教え込むために、良心的な多くの予備校講師は苦心し、一方で、真に正しいものは凡庸さを装うという逆説に気づかず、〈自分だけの方法〉を吹聴する一部の予備校講師は勝手に自滅していきます。
 思えば筆者も駆け出しのころ、〈自分だけの方法〉を振りかざす恥ずかしい予備校講師の一人でした。考えるまでもなく、他者の声(文章の内容や設問の要求)を聞き分けるのに、〈自分だけの方法〉は障害にしかなりません。そもそも、〈自分だけの方法〉が、どうして生徒に理解できるというのでしょう?
 私たちが他者の言葉を理解できるのは、理性(ロゴス)が「この世で最も平等に配分されている」(デカルト『方法序説』)からに他なりません。理性(ロゴス)によって紡がれた他者の言葉に対して、おのれの理性(ロゴス)をもって向き合う。その真っ当で他にはありえない知的営みを、高田先生は「たった一つのこと」と表現されたのです。

 ですが、一度読んだだけでは書き手の言わんとすることにはたどりつけません。言葉は無数の〈ゆらぎ〉を含みもちます。それは、理性(ロゴス)が試行錯誤してのたうち回った痕跡です。そのような末に、結論に至って「停止」する。もちろん、結論が最初から決まってはありません。筆者にとっても後から分かるものなのです。
 論の展開を「追跡」するとは、そうした〈ゆらぎ〉をも読み取ることです。そして、そこに思考の過程を見て取ることで、はじめて「出発」点である問題意識を共有することができます。しかし、〈ゆらぎ〉が〈ゆらぎ〉であることに気づくには、一度結論に触れていなければなりません。こうして、書き手が後から結論が分かることの裏返しで、読者も後から〈ゆらぎ〉が分かります。だからこそ、二度読まなければならないのです。
 「二度読んではじめて読んだと言える」という高田先生の言葉に目が覚めた私は、授業における分かりやすさはただのサービスという思いを新たにしました。そして、高田先生にならって、私は自著の「はじめに」で必ず「どうぞ二度読んで~」と書くことにしています。
(『東大のディープな日本史3』「おわりに」より・一部改変)


高田瑞穂『新釈現代文』(ちくま学芸文庫)

https://books.rakuten.co.jp/rb/6092416/?l-id=search-c-item-text-01

いつもありがとうございます。日々の投稿の励みになります。