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邪道と逆張り

 前向きな音楽を聴きたいわけではない。かと言って、死にたいなんて後ろ向きな音楽を聴きたいわけでも、死んでやる!なんて投げやりな音楽を聴きたいわけでもない(あいつらはどうせ死なないんだ)。陽気な海上の歌も流さないでくれ、コリアンミュージックも聴きたくない。昼間の下北沢で売れない芸人の一行が古着屋通りを通せんぼしてチラシを配っているよ。声がデカい人間は下北沢に似合わない、そんなことを言ったらあそこにいる大学生の群れはどうなるんだよ。紅茶が入っているカップの縁に付いた口紅を親指の腹で撫でたら、水滴と混ざって絵の具みたいに交わったんだ。
 そんなことを言っている間にも日が落ちて、また日が昇る。ゴミ捨て場で泥酔している漫画家も、下北沢のエロい男女も、乾いたカップの縁も、日が昇ったって目を覚さない連中は山ほどいる。でもそんなの気にしないで、ぬるい布団からちゃんと出て、カップに移って消えてしまった唇の内側に新しく口紅を塗って。本を1冊鞄に入れて、水筒のフタを固く締めて、ツケ払いの支払いを忘れないで。絶対に他人と同じにならないで、混ざらないで、溶けないで。


 金曜、恵比寿にある喫茶銀座に行きたくて、予備校終わり、マジで綺麗な先生(年齢不詳)に連れて行ってくださいとお願いしてみると、二つ返事で承諾してくれた。新宿駅まで小田急線で辿って、山手線に乗り換える。15・16番線はよく使うから案内板を見なくても行けるけれど、恵比寿へは14番線を使わないといけなくて、酷いトリックだと思った。恵比寿駅から喫茶銀座までの1分間だけ、その1分間だけ先生が手を繋いでくれた。長いベージュの爪を傷つけないように丁寧に握った。着いた頃にはもう20時だったけれど、閉店まであと2時間半もあって安心した。門限が20時なことを先生に伝えたら、わざとらし過ぎる咳払いをしてくれた。先生は珈琲を注文した後、「わたしも珈琲を」というわたしの声を遮って、クリームソーダを注文した。ちょっと睨むわたしの目を真っ直ぐ見据えて、「子供扱いしてるんじゃあないの、似合うから」と言った。1日中先生に付き纏ったマスカラが下瞼に落ちていたけれど、先生が綺麗過ぎてそれさえも良く見えた。

 人と同じって、つまらなくない?

 ここ、恵比寿にあるのに名前に銀座って付くの変ですよね。という時間の空白を埋めるだけのわたしの言葉を無視して、先生は珈琲に角砂糖を狂うほど入れながらそう言った。隣の席のジジイが先生を舐め回すように見て、ニヤッと笑った。先生の黒いロングヘアの隙間から覗く首筋に、昨日は無かったはずの赤茶色のアザがあった。先生、それ、キスマーク?蚊に刺され?ただのアザ?口には出さないけれど、わたしが何を思っているのか、わたしの視線から先生は感じ取っているはずだ。キスマークであってもそうでなくても、先生はきっとそれをキスマークだと言うだろう。そんな先生を淫乱だとか卑猥だとか、そんなことは一切思わずに、ちょっと恥ずかしいような嬉しいような、特別な気持ちになるのだ。きっと、きっとそれはわたしだけじゃない。予備校の生徒も、日本史の講師も、塾長も、清掃員のおばさんもきっと。
 アザから目を離して顔を上げると、もう満足?というような目をして先生が待っていた。1度頷いて、クリームソーダの氷をストローでつつく。その頷きが、満足だと言う意思表示なのか、先ほどの先生からの問いの答えなのか、それはとても曖昧なものだった。

 ライブハウスで、ドリンクチケットとして缶バッチを渡されるところあるでしょう。そうしたら私、絶対にドリンクを飲まないで缶バッチを持って帰るの。そうして部屋の壁に貼って、眺めたら1つ記憶が増えるでしょう。でもああいう缶バッチのデザインってすごくかっこ悪いのよね。

 先生が珈琲と角砂糖を馴染ませながら話し終えるのを待って、わたしもです、と口の中で用意されていた台詞を身を乗り出して吐き出した。以前廊下で先生と他の生徒がこの話をしているのをこっそり聞いていたからだ。早速翌日のライブでは飲みたかったクランベリージュースを我慢したこと、なくさないように缶バッチを鞄の1番深いところに置いたこと、なんだか自分の法律が増えた気がした時の浅い喜び、全部ちゃんと覚えている。小っ恥ずかしさと少しの気持ち悪さと、でも確かに高鳴る鼓動。
 先生はちぇっ、とちょっと嫌な顔をして珈琲を飲んだ。嬉しさと同時に胸の浅いところがチクっと痛んで、さっきの話の続きを催促した。
 あ、そうそう、と先生が座り直して、前のめりになってわたしを見つめた。深いVネックのニットがもっと深くなって、胸がざわついた。先生がひとくち珈琲を飲んだら、ボルドーの口紅がくっきりカップの縁に付着して、先生の唇の内側がちょっと薄くなった。なんだかそれがすごく官能的で良かった。

 人と同じってつまらなくない?少なくとも私はそう思うの。若い子って、他人と同じになりたくないって反抗心を持つくせに、自分に他人と違う部分があるとすごく不安になるの。矛盾だよね。その不安感を取り除ける子は強いと思うんだよね。どうせ歳取ってベッドから逃げられなくなったらみんな同じなんだからさ、流されないで、歯向かって、批判して欲しいのよ。逆張りして、その逆張りが主流になったらまた逆張りして、そうやって。

 Vネックに気を取られながらも耳を傾けた先生の熱い話は、Vネックのせいかもしれないけれどすごく浅くてくだらなかった。先生が言う願いが今の先生に反映されているなら、先生の逆張りは赤茶色のアザとかVネックなのかな。Vネックの先にどんなエロが待っているのか考える時間が主流なのならば、先生は邪道を生きているのだろうか。違うよね。年齢不詳予備校講師は、逆張りを提唱する純粋なノーマルだった。さっきすごくエロく見えたカップの縁に付いた口紅が、急に汚らしく見えた。
 狂うほどの魅力を持っているはずのわたしの法律の創立者が、蓋を開けてみたらよくいるフツーの自己陶酔人間だったことにすごく腹が立って、わたしはコートを着て1000円札を机の上に置いて立ち上がった。何も言わず去ろうとするわたしの手を掴んで、またはギュッと握って、先生はわたしを真っ直ぐ見つめる。

 絶対に他人と同じにならないで、混ざらないで、溶けないで。批判的な思考を忘れずに、常に邪道を、アブノーマルを追求して。

 先生は手を離した。わたしの手の中にはさっき机に置いたはずの1000円札がシワシワになって収まっていて、顔を上げたらキラキラ光っている先生の瞳が揺れ動いていた。1000円札を拳ごと乱暴にポケットに突っ込んで、先生のそこら辺の大人となんら変わりのない正義から目を逸らして、憧れの喫茶銀座を出た。帰り道、公衆トイレに入って行ったサラリーマンが露出狂みたいな格好になって出てきた一部始終とか、ブスとブスの駅前キスとか、路上ライブの汚いギターの音とか、全部を蹴って、蹴り飛ばして唾を吐いて歩いた。イヤホンを乱暴に耳に入れて、いつものプレイリストを漁って、でも何も聴きたい音楽がなくてまた腹が立って、お母さんとのメッセージ画面を開いて「もう予備校やめます」と打ち込んだ。静寂に耐えきれなかったiPhoneがオススメシャッフルで銀杏BOYZの援助交際を流して、「One,two,three,four!!!One,two,three,four!!!」という叫び声が大音量で流れて、思考の渦に飲まれて、さっき打ち込んだメッセージを消して、代わりに「死にます」と打ち込んで送信した。すぐにピロン♪というバカっぽい効果音が鳴って、お母さんからの返信の代わりに「送信できませんでした」という無機質なアナウンスが画面いっぱいを覆った。

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