その2

前回は「民族」の定義について話をしました。

短くまとめて言うと、「民族」というのは、「国家」という概念と非常に密接に結びついています。近代的な国家は、ある民族の固有の経済的・政治的利害を守るために形成されるものです。あるいは、近代的な国家を形成するために、それまでタテ社会だったものをヨコ社会に作り変え、「民族」を生み出す、ということもできます。

これはいわゆる卵が先かニワトリが先か論と一緒です。あるケースでは民族の方が先にできたり、別のケースでは国家の方が先にできたりします。

「民族」と「国家」はコインの裏表のような関係になります。

日本の場合には、「民族」概念の形成は幕末をピークとして江戸時代の中頃から明治の中頃にかけて行われた、とわたしは考えています。

まず水戸あたりで、「日本は神の国だ」という主張がなされました。

現代人はこういう話を聞くと、「あ、これアブナイやつだ」と思いがちです。ですがこの場合用語の意味をちょっと掘り下げる必要があります。

まず、「神」ですが、これはキリスト教などで言う「神」とは全く異なったものだ、ということをおさえておかなくてはなりません。

キリスト教などの神は、「律法」というもので自分の信者をがっちがちに縛り上げる神です。現代日本人の多くが「神」と聞くと「アブナイ」と思っちゃうのは、この「律法」に違和感を感じるからなんですね。

理不尽な教えを強制してくる。だからそこには洗脳とかの怪しい行為がつきまとうんじゃないか、と。

日本古来の神というのは、「律法」のようなものを押し付けてくる神ではありません。

日本の宗教は基本的に自然崇拝で、しかもありとあらゆるところに神を宿らせる、というところに特徴を持ちます。

例えばわたしがゴハンを食べ、あまりにおいしいので「神だ」とつぶやいたとします。

それを聞きつけた誰かが、同じゴハンを食べ、「神だ」と言ったら、そこにゴハンの神が生じることになるのです。

ネットの掲示板とかを見ていると、割と頻繁に「ネ申」という文句が飛び交います。あれと基本は全く同じなのです。

つまり日本的な神の正体は、「複数の人に共有されるなにか普通とは違うと思われる概念」です。

「日本は神の国」というのは、このような概念を共有できる人たちが住んでいる国、ということに他なりません。それ以上でもそれ以下でもないのです。

こういう考えがなぜ必要だったのか? それは、それまで「ほにゃらら藩士」や「ほにゃらら国ほにゃらら村の住民」という狭い範囲に留まっていた個人のアイデンティティを、後に日本国となる領域に重なるまで拡張するためだったわけです。

「神の国」つまり、日本の領域にあるさまざまな自然物由来のものに、ある価値を認めその認識を共有できる人々の集団が住む国、と定義することによって、「ほにゃらら藩士」たちは「日本民族」にクラスチェンジできるようになったのです。

全然、アブナイ話じゃありませんよね。

「概念の共有」が行われるのと並行して、「言語の共通化」も行われます。

それまでの場合、津軽の住民と、薩摩の住民が出会い、互いに会話を試みても、まったく意味が通じませんでした。

同じ系列の言葉だったはずなんですが、直接交流がなくなった結果、独自の進化を遂げるようになって、いつの間にか意思の疎通ができなくなった。

まあ、外国語と同じような状況になったわけです。これを共通化した。

この作業は、その人々が独自の文字を持っていたかどうかで進捗状態が大きく変わってきます。

逆に言うと、文字を持ってないとこの段階でつまづいてしまい、「民族」になれない人々も出てきてしまうということです。

そうなった人々はどうなるかというと、文字を持ち言語の共通化に成功した隣接する「民族」に吸収されていきます。

こういう流れを「文化侵略だ」という人も少なくありませんが、果たして本当にそう言えるのかどうか。

というところで今回のお話はおしまいです。次回からは、「文字を持たなかったために隣接する民族に吸収された人々」の具体例について話をしていきたいと思います。

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