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名前

 大人になってから、よく名前を間違えられる。下の名前ではない、苗字の方だ。私は大学を卒業するまでほとんど地元の田舎から出たことが無く、自分の苗字がそこまで都会の人間にとって馴染みの薄いものであるという認識がなかったのだ。地元には私と同じ苗字の人がたくさんいるし、学友たちも何の疑問も持たずに正しい読み方で呼んでくれた。地元にいる間は名前を間違えられるという経験なんて皆無だった。

 仮に私の苗字を「小倉」としよう。完全に体感ではあるが、初対面の人間の半数以上は私のことを「オグラさん」と呼ぶ。本当は「コクラ」なのに。
初めて入ったゼミの教授、会社の他部者の人、新しく予約した美容室の担当美容師、最近入ってきた新入社員、正しく1発で読めた人間の方が少ない。
そもそもこれから話すぞっていう相手の名前くらいちゃんと調べておいてくれよという話なのだがまあそれはさておき、最近はもう間違えられすぎて訂正するのも面倒になってきた。
「オグラさん!」と呼ばれて「コクラです。」とすぐに訂正するのもなんだか間違って呼ばれて怒っているみたいだし。間違って呼んだ人が恥ずかしい思いをするぐらいなら、別に私は「オグラさん」でもいいや、と思う。どうせ同じ部署に同じ苗字の人はいないし、いつか気づいてくれればそれでいい。

 さらに言うと、実は社内で使われている私の苗字の漢字も間違っている。また少し違う例を出すと、仮に私の名前が「ハシモト」だとしよう。私の苗字の「ハシ」は普通の「橋」ではなく、旧字体の「𣘺」だ。会社で作成した保険証などは流石に正しい方で記載されているが、労務課などが適当に作った組織図や制服の名札なんかは旧字体でない方になっている。本当は訂正した方がいいのだが、作成する際に変換するのも面倒だし、そもそも古い文書ソフトだと漢字が変換されないことすらザラにある。文字化けして変わり果てた姿になった自分の名前を見るのも正直うんざりしている。だからもうこれはもう仕方のないことなのだ。

 いろいろな名前で呼ばれすぎて、いつか自分の本当の名前を忘れてしまうのではないかと思う。Twitterのアカウント名で呼ばれた方がしっくりきてしまうような、インターネットに長く居座りすぎた悲しきモンスターに成り果てたのも、最近本当の名前に対する執着が薄くなってきたからなのかもしれない。千と千尋の神隠しで湯婆婆に名前を取られたハクってこんな感じなのかな、などとくだらないことを考えていたら、また社内チャットで挙げられた私の名前が間違っていることに気づいてしまった。

いや、別に怒ってなどいない。
ただ、自分の名前は自分自身ぐらいめんどくさがらずちゃんと大事にした方がいいのかなという微かな心境の変化があっただけだった。

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