雨宮まみさんの死をうけて

雨宮まみさんが亡くなった。

とてもショックで、呆然とした気持ちから先に進めていない。
そもそも私は雨宮さんの知り合いでもなんでもない。ただネットを通して彼女の書く文章を読んでいただけだ。なのに何故こんなにショックなのか。

雨宮さんは私より少し年上で、女性として生きていくことに向き合い思うことを、押し付けがましくない文章で世の中に投げかけることを生業としていた。加えてここ最近は、振り切れたように、自分が楽しいことをしよう。可愛いと思うものを身につけよう。欲望に素直になろう。と行動し、その様子を積極的に発信していた。実際、好きな洋服やアクセサリーを身に付け笑う彼女はとても美しかった。

私はというと、こんなに素敵な文章を書けて、どんどん綺麗にもなっていて、いいなあちくしょう!と小物感溢れる気持ちを持ちつつ、webの連載やツイッターを読んでいた。特に「穴の底でお待ちしています」という連載をよく読んだ。この連載はネットで募集した他人には言えない悩みや愚痴を、雨宮さんが聞いてお返事する形式のものだった。投稿者に対して、雨宮さんは白黒はっきりした回答はしない。そして投稿者自身を決して否定しない。文面から気持ちを整理し、時には提案したりしながら心地よい距離感で寄り添ってくれる。読んだ人に、ああ「こんな人に話を聞いてもらえたら」と自然に思わせる文章だった。

けれど雨宮さん自身も、決して精神的に強くないということを著書やブログの中で書いていた。今回、一部報道で、雨宮さんが今年の6月にあげたブログエントリー「死にたくなる夜に思うこと」が、改めて取り上げられている。私はこのエントリーを読んで「ああわかるなあ。とてもわかるなあ」としみじみ思った。私にとっても握り締める冷たい手すりがある。似たような感情の揺らぎを持つ人がいるんだということ。それをこうやって書いて発信する存在に、たぶん物凄く寄りかかっていたんだろう。そして似たような気持ちを持つ人が、自分の暮らす東京で生きているということにも、無意識に寄りかかっていたんだろう。とても勝手な気持ちで、でもそんな一方的な気持ちまで雨宮さんは感じ取っていたんじゃないかとすら思う。だとしたらとても重たかったろうなあ。

今、雨宮さんはもう穴の底にはいない。違う場所にいってしまった。まだ信じられない。私はあまりに無防備に、雨宮さんと同じ時代を生きて、彼女の言葉を読み続けられると思っていた。そこに疑問を持つことすらなかった。彼女の書く文章がもう読めないなんて、なかなか思えない。勝手に寄りかかって何も構えをしていなかった。寄りかかっていたはずの暖かいものが、急にいなくなってガタッと体が倒れたような感じだ。その衝撃は相当でショックは尾を引いている。

けれどどうしたって、もう雨宮さんがいないのは事実だ。死による不在の事実に慣れるには、時間がかかることを私は知っている。今回は結構かかるなと予想もしている。ゆっくり向き合うしかない。

最後に。
雨宮さんがあちらで、好きなお洋服とアクセサリーを身に纏って笑っていますように。綺麗なお花や好きな雑貨に囲まれて軽やかに笑っていますように。

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