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大変気になる音楽

大変気になる音楽に、4年遅れで出会った。ミュージシャンの名前は、ジェフリー・グルムル(Geoffery Gurrumul)という、盲目のシンガーソングライターで、オーストラリアの先住民のアボリジニである。私が彼の存在を知ったのは、由美子が脳血管の手術から回復過程にあった2008年頃で、日本への帰国を決意する前だった。彼は伸びのある高音と美しいメロディーラインで評判のミュージシャンだった。でも私が好きだっのは、彼がコラボしたブルー・キング・ブラウン(Blue King Brown)との作品(Gathu  Mawula Revisited) やヒップホップグループのブリグス(Briggs)とのコラボであって、どちらもアボリジニの差別の歴史や、今なお根強く潜在する社会的抑圧や偏見に対する怒りや抗議をテーマとする曲群だった。

さて私と由美子が日本に帰国したのは2012年で、それから10年も経った2022年の5月のある日、絵画教室の生徒とオーストラリアのアボリジニの音楽の話をした。そもそも私はアボリジニのアートのプリミティブな魅力に魅せられて日本からお脱出先としてオーストラリアを選んだのだが、帰国後10年も経つと、さすがにその思い入れも薄らぐのかアボリジナルミュージックを聴くことも以前ほどではなくなっていた。でも生徒との会話がきっかけでしばらく記憶の片隅に追いやられていたアボリジニの姿が音楽とともに少しづつ浮かび上がってきた。そこで私はパソコンでグルムルその後をしらべたくなった。そこで私はブッたまげた。なんと彼は2017年に病死していたのだ。wikipediaにあたってみたら46歳の若さで逝ってしまったのだ。そして死の翌年2018年に最新で最後のアルバム "Djarimirri(Child of the Rainbow)" が発売されていたことを知った。さっそくyoutubeとspotify を当ってみたところこれまたぶっ飛んだ。なんと伴奏がミニマル・ミュージックなのだ。フィリップ・グラスやスティーブ・ライヒばりのそれなのだ。テリー・ライリーの "In C"を学生時代に知って以来その音群の反復と伸長の不思議な魅力の虜になっていた私はまさに狂喜乱舞。(ミニマルミュージックに疎い方は,どうかネットでチェックしてください。)

元々グルムルは、右利きのギターをそのまま左手で弾き、つまり弦が上下逆のままで器用に演奏することと、アボリジニ独特のハスキーな地声にもかかわらず、伸びのある高音を生かしたメロディーを産み出すことで評判となっていた。前に述べたように私が惹かれたヒップホップやレゲエとのコラボは彼のレパートリーの中では例外に属していた。ところが2018年のこのアルバムは、クラシック音楽のカテゴリーに分類される”現代音楽”一様式であるミニマル・ミュージックを伴奏に使っているのだ。アボリジナル・ミュージックという数万年もの文化的歴史に支えられた伝統的な民族音楽と、ベートーベンモーツアルトに代表されるクラシック音楽の伝統様式を破壊するかのように、大胆に革新してきた現代音楽の一つの到達点であるミニマル・ミュージックは、お互いに”最も似つかわしくない相手と言ってもよいだろう。そのいわば天敵同士がつるんだのだ。でも改めて思い起こせば、ミニマル・ミュージック自身がアフリカ、インド、バリ島などの非白人文化圏の民族音楽のリズムやメロディに影響されて産み出されてきたのであるから、両者がつるんでも何ら不自然ではないのももう一方の事実だ。

そしてこれが重要なのだが、その”天敵同士のつるみ”が私見では見事に成功しているのだ。グルムルのチャントや歌唱が、スティーブ‣ライヒ張りまたはフィリップ・グラス張りの反復リズムやメロディーと見事に融合して、ポストモダンあるいは脱モダンの新世界を創出しているのだ。そしてその音世界が、今日のアボリジニの悲しみ、苦悩、怒りといった精神世界を見事に表現しているのこれを傑作と称せずして何を傑作と称すのか。

大仰に言えば、現代の科学文明の到達点であるAIやIT技術と、その負の側面である地球環境の問題という矛盾し対立する二項の融和は可能であるという希望をこの作品は表現しているのだ。ただしこの希望は芸術世界の範囲内での希望であり、その精神世界での希望を現実の物質世界へ”いかにして敷衍するかは、芸術の問題ではなく知性と(字義どうりの意味での)合理主義という大脳皮質の問題である。そして我々が、日々の生活の中でいかにして知性・理性を見失わずに行動の規範とすることができるか、またその実質的な実現装置としての政治の在り様をいかにして”まっとう”にあらせるかがこれからの課題である。


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